げながら、糅然《じゅうぜん》と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから盤《さら》だの瓶《ほたり》だのが粉微塵《こなみじん》に砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴《ほらあな》の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。
彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那《いっせつな》は茫然と佇《たたず》んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな呻《うめ》き声を発して、弦《いと》を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。
空には暈《かさ》のかかった月が、無気味《ぶきみ》なくらいぼんやり蒼《あお》ざめていた。森の木々もその空に、暗枝《あんし》をさし交《かわ》せて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事《きょうじ》が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を埋《うず》めようとするごとく、どこまで行っても浪《なみ》を立てていた。時々|夜鳥《よどり》がその中から、翼に薄い燐光《りんこう》を帯びて、風もない梢《こずえ》へ昇って行った。……
明《あ》け方《がた》彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛《なまり》の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳《そび》えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒《い》やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下《おろ》して、寂しい水面《みのも》へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原《たかまがはら》の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵《してき》のすべてであった。――彼は両手に顔を埋《うず》めて、長い間大声に泣いていた。
その間に空模様が変った。対岸を塞《ふさ》いだ山の空には、二三度|鍵《かぎ》の手の稲妻《いなずま》が飛んだ。続いて殷々《いんいん》と雷《いかずち》が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕《はら》んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄《にわか》に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
雷《いか
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