その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い獣《けもの》が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の剣《つるぎ》を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を揮《ふる》わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺《たきつぼ》の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。
それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中《ひた》りながら、洞穴の奥に蹲《うずくま》って、一夜中《ひとよじゅう》酔《よい》泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬《しっと》で一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間《あさま》しさなどは、寸毫《すんごう》も念頭には上《のぼ》らなかった。
ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋《うず》めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を抱《いだ》きながら艶《なま》めかしい言葉を囁《ささや》いた。彼は意外な眼を挙げて、油火《あぶらび》には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を透《す》かして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく床《ゆか》に倒れて、苦しそうな呻吟《しんぎん》の声を洩らした。――それはあの腰も碌《ろく》に立たない、猿のような老婆の声であった。
三十
老婆を投げ倒した素戔嗚《すさのお》は、涙に濡れた顔をしかめたまま、虎《とら》のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒《ふんぬ》と屈辱《くつじょく》との煮え返っている坩堝《るつぼ》であった。彼は眼前に犬と戯《たわむ》れている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎《かぶつち》の太刀を引き抜きながら、この女たちの群《むらが》った中へ、我を忘れて突進した。
犬は咄嗟《とっさ》に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、哮《たけ》り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下《きっさきさが》りにもう一度狂いまわる犬を刺《さ》そうとした。
しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫《おおけつひめ》の胸を刺した。彼女は苦痛の声を洩《も》らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙
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