涙は実際彼の煩《ほお》に、冷たい痕《あと》を止《とど》めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明《ほたあか》りに照らされた、洞穴《ほらあな》の中を見廻した。彼と同じ桃花《とうか》の寝床には、酒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする大気都姫《おおけつひめ》が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目《びもく》の形こそ変らないが、垂死《すいし》の老婆と同じ事であった。
彼は恐怖と嫌悪《けんお》とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖《なまあたたか》い寝床を辷《すべ》り脱けた。そうして素早く身仕度《みじたく》をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。
外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓《ふじづる》の橋を渡るが早いか、獣《けもの》のように熊笹を潜《くぐ》って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔《こけ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]、梟《ふくろう》の眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力に溢《あふ》れているようであった。
彼は後《あと》も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂《とが》や樅《もみ》の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢《こずえ》の山鳩《やまばと》を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木《こ》の実《み》は、どこにでも沢山あった。
日の暮は瞼《けわ》しい崖《がけ》の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒《ほこ》を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣《つるぎ》や斧《おの》を思いやった。すると何故《なぜ》か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻《まぼろし》であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦《ふせ》ごうとした。が、あの洞穴の榾火《ほたび》の思い出は、まるで眼に見
前へ
次へ
全53ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング