罩《こ》めていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで大暴風雨《おおあらし》の天のように、渦巻く疑惑の雲を裂《さ》いて、憤怒《ふんぬ》と嫉妬《しっと》との稲妻が、絶え間なく閃《ひらめ》き飛んでいた。彼を欺《あざむ》いたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か狡猾《こうかつ》な手段を弄して、娘から勾玉を巻き上げたのであろうか。……
 彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす小家《こいえ》まで来た。見ると幸《さいわい》小家の主人は、まだ眠らずにいると見えて、仄《ほの》かな一盞《いっさん》の燈火《ともしび》の光が、戸口に下げた簾《すだれ》の隙から、軒先の月明と鬩《せめ》いでいた。襟をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、始めて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりが俄《にわか》に暗くなって、ただ一しきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。――彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも造作《ぞうさ》なく、月の光を堰《せ》いた簾の内へ、まっさかさまに投げこまれたのであった。

        二十

 家の中にはあの牛飼の若者が、土器《かわらけ》にともした油火《あぶらび》の下に、夜なべの藁沓《わらぐつ》を造っていた。彼は戸口に思いがけない人のけはいが聞えた時、一瞬間|忙《せわ》しい手を止めて、用心深く耳を澄ませたが、その途端《とたん》に軒の簾が、大きく夜を煽《あお》ったと思うと、突然一人の若者が、取り乱した藁《わら》のまん中へ、仰向けざまに転げ落ちた。
 彼はさすがに胆《きも》を消して、うっかりあぐらを組んだまま、半ば引きちぎられた簾の外へ、思わず狼狽《ろうばい》の視線を飛ばせた。するとそこには素戔嗚《すさのお》が、油火の光を全身に浴びて、顔中に怒りを漲《みなぎ》らせながら、小山のごとく戸口を塞《ふさ》いでいた。若者はその姿を見るや否や、死人のような色になって、しばらくただ狭い家の中をきょろきょろ見廻すよりほかはなかった。素戔嗚は荒々しく若者の前へ歩み寄ると、じっと彼の顔を睨《にら》み据えて、
「おい、貴様は確かにあの娘へ、おれの勾玉《まがたま》を渡したと云ったな。」と忌々《いまいま》しそうな声をかけた。
 若者は答えなかっ
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