う燕《つばくら》の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端《とたん》に、彼女は品《ひん》良《よ》く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶《あいさつ》の点頭《じぎ》を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後《あと》を追って、やはり釘《くぎ》を撒《ま》くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井《ふきい》の側へ歩み寄って、大きな掌《たなごころ》へ掬《すく》った水に、二口三口|喉《のど》を沾《うるお》した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己《おのれ》自身を嘲《あざけ》りたいような気もしないではなかった。
その間に女たちはそよ風に領巾《ひれ》を飜《ひるがえ》しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴《ふ》き井《い》から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後《うしろ》へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。
噴き井の水を飲んでいた彼は、幸《さいわい》その視線に煩《わずら》わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高《なかだか》になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟《とっさ》に覚束《おぼつか》ない影を落した。素戔嗚は慌《あわ》てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭《むち》を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添《まきぞ》えにした、あの牛飼《うしかい》の崇拝者であった。
「お早うございます。」
若者は愛想《あいそ》笑いを見せながら、恭《うやうや》しく彼に会釈《えしゃく》をした。
「お早う。」
彼はこの若者にまで、狼狽《ろうばい》した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。
十四
が、若者はさり気《げ》ない調子で、噴き井の上に枝垂《しだ》れかかった白椿の花を※[#
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