なかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅《か》ぎつけるには、余りに平生《へいぜい》の素戔嗚《すさのお》が、恋愛とは遥《はるか》に縁の遠い、野蛮《やばん》な生活を送り過ぎていた。
彼は相不変《あいかわらず》人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中《ひとよじゅう》、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪《しし》などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲《す》んでいる大鷲《おおわし》を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗《いまだかつて》、その非凡な膂力《りょりょく》を尽すべき、手強《てごわ》い相手を見出さなかった。山の向うに穴居《けっきょ》している、慓悍《ひょうかん》の名を得た侏儒《こびと》でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸《しがい》になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀《いが》み合う事を憚《はばか》らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮《いこう》には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢《あつれき》し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――
現に一度はこう云うことがあった。
ある麗《うらら》かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山《くさやま》を独《ひと》り下《くだ》って来た。その時の彼の心の中《うち》には、さっき射損じた一頭の牡鹿《おじか》が、まだ折々は未練がましく、鮮《あざや》かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平《たいら》になって、一本の楡《にれ》の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻《しきり》に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼《か》いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食《は》んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕《ぬぼく》
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