彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒《なぎたお》しそうな擬勢《ぎせい》を示しながら、雷《いかずち》のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」
女たちはさすがに驚いたらしく、慌《あわ》てて彼の側《かたわら》を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜《よめな》の花を摘み取っては、一斉《いっせい》に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》の好い雨を浴びたまま、呆気《あっけ》にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯《いたずら》な女たちの方へ、二足《ふたあし》三足《みあし》突進した。
彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止《どま》ったなり、次第に遠くなる領巾《ひれ》の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故《なぜ》か薄笑いが、自然と唇《くちびる》に上《のぼ》って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗《うら》らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後《あと》にはただ草木の栄《さかえ》を孕《はら》んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
何分《なんぷん》か後《のち》、あの羽根を傷《きずつ》けた山鳩は、怯《お》ず怯《お》ずまたそこへ還《かえ》って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向《あおむ》いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――
九
その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言《ひとこと》もこの事情を打ち明け
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