ようとするものはなかった。

        六

 高天原《たかまがはら》の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装《よそお》う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬《しっと》を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度《おめでた》さとに残酷な嘲笑《ちょうしょう》を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。
 こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首《いくび》の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷《いた》ましい痕跡《こんせき》を残していた。この記憶を抱《いだ》いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥《しゅうち》の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目《ま》なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。
 彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞《めぐ》る山間の自然の中《うち》に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩《やまばと》の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆《あし》と共に、彼の寂寥《せきりょう》を慰むべく、仄《ほの》かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木《やぶき》の交《まじ》る針金雀花《はりえにしだ》、熊笹の中から飛び立つ雉子《きぎす》、それから深い谷川の水光りを乱す鮎《あゆ》の群、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎《あいぞう》の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。
 時々彼が谷川の石の上に、水を掠《かす》めて去来する岩燕《いわつばめ》を眺めていると、あるいは山峡《やまかい》の辛夷《こぶし》の下に、蜜《みつ》に酔《よ》って飛びも出来ない虻《あぶ》の羽音
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