《はおと》を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座《とうざ》どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫《らくばく》たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎《なげ》くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣《けもの》のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏《かしわ》の梢《こずえ》に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原《かわら》に近く、碁石《ごいし》のように点々と茅葺《かやぶ》き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食《かしょく》の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨《また》がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺《ゆす》って、折々枝頭の若芽の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁《ささや》いて行くように思われた。
「素戔嗚《すさのお》よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」
七
しかし素戔嗚《すさのお》は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原《たかまがはら》の国に繋《つな》いでいたか。――彼は自《みずか》らそう尋《たず》ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私《ひそ》かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合《ふにあい》の感じがしたからであった。
彼が始めて
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