とんど声援を与うべき余裕さえ奪った観《かん》があった。彼等は皆息を呑んで千曳《ちびき》の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴《したた》り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後《のち》、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好《よ》い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩《も》れた驚歎の呻《うめ》きにほかならなかった。何故《なぜ》と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡《もた》げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分《いちぶ》ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀《とつこつ》たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額《ひたい》に乱して、あたかも大地《だいち》を裂《さ》いて出た土雷《つちいかずち》の神のごとく、河原に横《よこた》わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。

        五

 千曳《ちびき》の大岩を担《かつ》いだ彼は、二足《ふたあし》三足《みあし》蹌踉《そうろう》と流れの汀《なぎさ》から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好《い》いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。
 猪首《いくび》の若者は逡巡《しゅんじゅん》した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、
「よし。」と噛《か》みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱《だ》き取ろうとした。
 岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫《かんまん》であった。と同時にまた雲の峰が堰《せ》き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼《おおかみ》のように牙《きば》を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳《ちびき》の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那《せつな》の間《あいだ》、大風《おおかぜ》の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔
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