お前なんどは肥《こへ》たご桶《をけ》を叩いて甚句《じんく》でもうたつてお出《い》でなさりや善《い》いのに。」
師匠は酒の醒《さ》めてゐる時には決してお宗さんにも粗略ではなかつた。しかし一度言はれた小言はお宗さんをひがませずには措《お》かなかつた。「どうせあたしは檀那衆《だんなしゆう》のやうによくする訣《わけ》には行《い》かないんだから。」――お宗さんは時々兄さんにもそんな愚痴《ぐち》などをこぼしてゐた。
「曾我《そが》の五郎と十郎とは一体どつちが兄さんです?」
四十を越したお宗さんは「形見《かたみ》おくり」を習つてゐるうちに真面目《まじめ》にかういふことを尋ねたりした。この返事には誰も当惑《たうわく》した。誰も? ――いや「誰も」ではない。やつと小学校へはひつた僕はすぐに「十郎が兄さんですよ」といひ、反《かへ》つてみんなに笑はれたのを羞《はづか》しがらずにはゐられなかつた。
「何しろああいふお師匠さんぢやね。」
一中節《いつちうぶし》の師匠《ししやう》になることはとうとうお宗《そう》さんには出来なかつた。お宗さんはあの震災のために家も何も焼かれたとかいふことだつた。のみならず一時
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