だけはほとんど有無《うむ》を問《と》われないだけに、頗《すこぶ》る好都合《こうつごう》に出来上っている。君はまだ高等学校にいた時、僕に「さまよえる猶太《ユダヤ》人」と云う渾名《あだな》をつけたのを覚えているであろう。実際僕は君のいった通り、「さまよえる猶太《ユダヤ》人」に生れついたらしい。が、このチベットのラッサだけは甚だ僕の気に入っている。というのは何も風景だの、気候だのに愛着のある訣《わけ》ではない。実は怠惰《たいだ》を悪徳としない美風を徳としているのである。
博学なる君はパンデン・アアジシャのラッサに与えた名を知っているであろう。しかしラッサは必ずしも食糞餓鬼《じきふんがき》の都ではない。町はむしろ東京よりも住み心の好《い》いくらいである。ただラッサの市民の怠惰は天国の壮観といわなければならぬ。きょうも妻は不相変《あいかわらず》麦藁《むぎわら》の散らばった門口《かどぐち》にじっと膝《ひざ》をかかえたまま静かに午睡《ごすい》を貪《むさぼ》っている。これは僕の家ばかりではない。どの家の門口にも二三人ずつは必ずまた誰か居睡《いねむ》りをしている。こういう平和に満ちた景色は世界のどこに
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