た。が、彼は本の上に何度も笑つたり泣いたりした。それは言はば転身だつた。本の中の人物に変ることだつた。彼は天竺の仏のやうに無数の過去生を通り抜けた。イヴアン・カラマゾフを、ハムレツトを、公爵アンドレエを、ドン・ジユアンを、メフイストフエレスを、ライネツケ狐を、――しかもそれ等の或ものは一時の転身には限らなかつた。現に或晩秋の午後、彼は小遣ひを貰ふ為に年とつた叔父を訪問した。叔父は長州萩の人だつた。彼はことさらに叔父の前に滔々と維新の大業を論じ、上は村田清風から下は山県有朋に至る長州の人材を讃嘆した。が、この虚偽の感激に充ちた、顔色の蒼白い高等学校の生徒は当時の大導寺信輔よりも寧ろ若いジユリアン・ソレル――「赤と黒」の主人公だつた。
かう言ふ信輔は当然又あらゆるものを本の中に学んだ。少くとも本に負ふ所の全然ないものは一つもなかつた。実際彼は人生を知る為に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める為に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠の策だつたのかも知れなかつた。が、街頭の行人は彼には只行人だつた。彼は彼等を知る為には、――彼等の愛を、彼等の憎悪を、彼等の虚栄心を知
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