だつた。この孤独に安んじた今日、――或はこの孤独に安んずる外に仕かたのないことを知つた今日、二十年の昔をふり返つて見れば、彼を苦しめた中学の校舎は寧ろ美しい薔薇色をした薄明りの中に横はつてゐる。尤もグラウンドのポプラアだけは不相変鬱々と茂つた梢に寂しい風の音を宿しながら。………

       五 本

 本に対する信輔の情熱は小学時代から始まつてゐた。この情熱を彼に教へたものは父の本箱の底にあつた帝国文庫本の水滸伝だつた。頭ばかり大きい小学生は薄暗いランプの光のもとに何度も「水滸伝」を読み返した。のみならず本を開かぬ時にも替[#レ]天行[#レ]道の旗や景陽岡の大虎や菜園子張青の梁に吊つた人間の腿を想像した。想像?――しかしその想像は現実よりも一層現実的だつた。彼は又何度も木剣を提げ、干し菜をぶら下げた裏庭に「水滸伝」中の人物と、――一丈青扈三娘や花和尚魯智深と格闘した。この情熱は三十年間、絶えず彼を支配しつづけた。彼は度たび本を前に夜を徹したことを覚えてゐる。いや、几上、車上、厠上、――時には路上にも熱心に本を読んだことを覚えてゐる。木剣は勿論「水滸伝」以来二度と彼の手に取られなかつ
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