た。彼はそれ等を読んだ為に「都に近き山の形」を、「欝金畠《うこんばたけ》の秋の風」を、「沖の時雨《しぐれ》の真帆片帆」を、「闇《やみ》のかた行く五位の声」を、――本所の町々の教えなかった自然の美しさをも発見した。この「本から現実」へは常に信輔には真理だった。彼は彼の半生の間に何人かの女に恋愛を感じた。けれども彼等は誰一人女の美しさを教えなかった。少くとも本に学んだ以外の女の美しさを教えなかった。彼は日の光を透かした耳や頬《ほお》に落ちた睫毛《まつげ》の影をゴオティエやバルザックやトルストイに学んだ。女は今も信輔にはその為に美しさを伝えている。若《も》しそれ等に学ばなかったとすれば、彼は或は女の代りに牝《めす》ばかり発見していたかも知れない。…………
尤《もっと》も貧しい信輔は到底彼の読むだけの本を自由に買うことは出来なかった。彼のこう言う困難をどうにかこうにか脱したのは第一に図書館のおかげだった。第二に貸本屋のおかげだった。第三に吝嗇《りんしょく》の譏《そしり》さえ招いだ彼の節倹のおかげだった。彼ははっきりと覚えている――大溝《おおどぶ》に面した貸本屋を、人の好い貸本屋の婆さんを、婆さんの内職にする花簪《はなかんざし》を。婆さんはやっと小学へ入った「坊ちゃん」の無邪気を信じていた。が、その「坊ちゃん」はいつの間にか本を探がす風を装《よそお》いながら、偸《ぬす》み読みをすることを発明していた。彼は又はっきりと覚えている。――古本屋ばかりごみごみ並んだ二十年前の神保町通りを、その古本屋の屋根の上に日の光を受けた九段坂の斜面を。勿論当時の神保町通りは電車も馬車も通じなかった。彼は――十二歳の小学生は弁当やノオト・ブックを小脇《こわき》にしたまま、大橋図書館へ通う為に何度もこの通りを往復した。道のりは往復一里半だった。大橋図書館から帝国図書館へ。彼は帝国図書館の与えた第一の感銘をも覚えている。――高い天井に対する恐怖を、大きい窓に対する恐怖を、無数の椅子《いす》を埋め尽した無数の人々に対する恐怖を。が、恐怖は幸いにも二三度通ううちに消滅した。彼は忽《たちま》ち閲覧室に、鉄の階段に、カタロオグの箱に、地下の食堂に親しみ出した。それから大学の図書館や高等学校の図書館へ。彼はそれ等の図書館に何百冊とも知れぬ本を借りた。又それ等の本の中に何十冊とも知れぬ本を愛した。しかし――
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