しかし彼の愛したのは――殆《ほとん》ど内容の如何を問わずに本そのものを愛したのはやはり彼の買った本だった。信輔は本を買う為めにカフエへも足を入れなかった。が、彼の小遣いは勿論常に不足だった。彼はその為めに一週に三度、親戚《しんせき》の中学生に数学(!)を教えた。それでもまだ金の足りぬ時はやむを得ず本を売りに行った。けれども売り価は新らしい本でも買い価の半ば以上になったことはなかった。のみならず永年持っていた本を古本屋の手に渡すことは常に彼には悲劇だった。彼は或薄雪の夜、神保町通りの古本屋を一軒一軒|覗《のぞ》いて行った。その内に或古本屋に「ツアラトストラ」を一冊発見した。それも只の「ツアラトストラ」ではなかった。二月ほど前に彼の売った手垢《てあか》だらけの「ツアラトストラ」だった。彼は店先きに佇《たたず》んだまま、この古い「ツアラトストラ」を所どころ読み返した。すると読み返せば読み返すほど、だんだん懐しさを感じだした。
「これはいくらですか?」
 十分ばかり立った後、彼は古本屋の女主人にもう「ツアラトストラ」を示していた。
「一円六十銭、――御愛嬌《ごあいきょう》に一円五十銭にして置きましょう。」
 信輔はたった七十銭にこの本を売ったことを思い出した。が、やっと売《う》り価《ね》の二倍、――一円四十銭に価切った末、とうとうもう一度買うことにした。雪の夜の往来は家々も電車も何か微妙に静かだった。彼はこう言う往来をはるばる本郷へ帰る途中、絶えず彼の懐ろの中に鋼鉄色の表紙をした「ツアラトストラ」を感じていた。しかし又同時に口の中には何度も彼自身を嘲笑《ちょうしょう》していた。……
 
   六 友だち

 信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たといどう言う君子にもせよ、素行以外に取り柄のない青年は彼には用のない行人だった。いや、寧《むし》ろ顔を見る度に揶揄《やゆ》せずにはいられぬ道化者だった。それは操行点六点の彼には当然の態度に違いなかった。彼は中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通りぬける間に絶えず彼等を嘲笑した。勿論《もちろん》彼等の或ものは彼の嘲笑を憤った。しかし又彼等の或ものは彼の嘲笑を感ずる為にも余りに模範的君子だった。彼は「厭《いや》な奴《やつ》」と呼ばれることには常に多少の愉快を感じた。が、如何なる嘲笑も更に手答えを与えな
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