に媚びる卑しさの潜んでいる為だった。さもなければ彼等の同性愛に媚びる醜さの潜んでいる為だった。彼は彼等の前へ出ると、どうしても自由に振舞われなかった。のみならず時には不自然に巻煙草《まきたばこ》の箱へ手を出したり、立ち見をした芝居を吹聴したりした。彼等は勿論この無作法を不遜の為と解釈した。解釈するのも亦尤もだった。彼は元来人好きのする生徒ではないのに違いなかった。彼の筺底《きょうてい》の古写真は体と不吊合《ふつりあい》に頭の大きい、徒《いたず》らに目ばかり赫《かがや》かせた、病弱らしい少年を映している。しかもこの顔色の悪い少年は絶えず毒を持った質問を投げつけ、人の好い教師を悩ませることを無上の愉快としているのだった!
信輔は試験のある度に学業はいつも高点だった。が、所謂《いわゆる》操行点だけは一度も六点を上らなかった。彼は6と言うアラビア数字に教員室中の冷笑を感じた。実際又教師の操行点を楯《たて》に彼を嘲《あざけ》っているのは事実だった。彼の成績はこの六点の為にいつも三番を越えなかった。彼はこう言う復讐《ふくしゅう》を憎んだ。こう言う復讐をする教師を憎んだ。今も、――いや、今はいつのまにか当時の憎悪を忘れている。中学は彼には悪夢だった。けれども悪夢だったことは必しも不幸とは限らなかった。彼はその為に少くとも孤独に堪える性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩みは今日よりももっと苦しかったであろう。彼は彼の夢みていたように何冊かの本の著者になった。しかし彼に与えられたものは畢竟落寞《ひっきょうらくばく》とした孤独だった。この孤独に安んじた今日、――或はこの孤独に安んずるより外に仕かたのないことを知った今日、二十年の昔をふり返って見れば、彼を苦しめた中学の校舎は寧《むし》ろ美しい薔薇色《ばらいろ》をした薄明りの中に横《よこた》わっている。尤《もっと》もグラウンドのポプラアだけは不相変欝々《あいかわらずうつうつ》と茂った梢《こずえ》に寂しい風の音を宿しながら。………
五 本
本に対する信輔の情熱は小学時代から始まっていた。この情熱を彼に教えたものは父の本箱の底にあった帝国文庫本の水滸伝《すいこでん》だった。頭ばかり大きい小学生は薄暗いランプの光のもとに何度も「水滸伝」を読み返した。のみならず本を開かぬ時にも替[#レ]天行[#レ]道の旗や景陽岡の大虎や菜園子張青
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