戸を開けば、天色《てんしよく》常に燃ゆるが如く紅《くれなゐ》なり。
この日、下島《しもじま》先生の夫人、単身《たんしん》大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支《ささ》ふ。為めに出火の患《うれひ》なきを得たり。胆勇《たんゆう》、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎《しぶえちうさい》の夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
九月二日。
東京の天、未《いま》だ煙に蔽《おほ》はれ、灰燼《くわいじん》の時に庭前に墜《お》つるを見る。円月堂《ゑんげつだう》に請ひ、牛込《うしごめ》、芝等《しばとう》の親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南《しやうなん》地方全滅の報あり。鎌倉に止《とど》まれる知友を思ひ、心|頻《しき》りに安からず。薄暮《はくぼ》円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土《せうど》と化せりと云ふ。姉《あね》の家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
この日、避難民の田端《たばた》を経《へ》て飛鳥山《あすかやま》に向《むか》ふもの、陸続《りくぞく》として絶えず。田端も亦《また》延焼せんことを惧《おそ》れ、妻は児等《こ
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