足などには少しも焼け爛《ただ》れた痕《あと》はなかつた。しかし僕の忘れられぬのは何もさう云ふ為ばかりではない。焼死した死骸は誰も云ふやうに大抵《たいてい》手足を縮《ちぢ》めてゐる。けれどもこの死骸はどう云ふ訣《わけ》か、焼け残つたメリンスの布団《ふとん》の上にちやんと足を伸《の》ばしてゐた。手も亦《また》覚悟を極《き》めたやうに湯帷子《ゆかた》の胸の上に組み合はせてあつた。これは苦しみ悶《もだ》えた死骸ではない。静かに宿命を迎へた死骸である。もし顔さへ焦《こ》げずにゐたら、きつと蒼《あを》ざめた脣《くちびる》には微笑に似たものが浮んでゐたであらう。
僕はこの死骸をもの哀《あは》れに感じた。しかし妻にその話をしたら、「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と云つた。成程《なるほど》さう云はれて見れば、案外《あんぐわい》そんなものだつたかも知れない。唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである。
五
僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛《きくちくわん》はこの資格に乏しい。
戒厳令《かいげんれい》の布《し》かれた後《のち》、僕は巻煙草を啣《くは》へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤《もつと》も雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訣《わけ》ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉《まゆ》を挙げながら、「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だよ、君」と一喝《いつかつ》した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]だらう」と云ふ外《ほか》はなかつた。しかし次手《ついで》にもう一度、何《なん》でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉を挙げると、「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]か」と忽ち自説(?)を撤回《てつくわい》[#ルビの「てつくわい」は底本では「てつくわ」]した。
再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装《よそほ
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