》はねばならぬものである。けれども野蛮《やばん》なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似《まね》もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄《はうき》したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団《じけいだん》の一員たる僕は菊池の為に惜《をし》まざるを得ない。
尤《もつと》も善良なる市民になることは、――兎《と》に角《かく》苦心を要するものである。
六
僕は丸の内の焼け跡を通つた。此処《ここ》を通るのは二度目である。この前来た時には馬場先《ばばさき》の濠《ほり》に何人も泳いでゐる人があつた。けふは――僕は見覚えのある濠《ほり》の向うを眺めた。堀の向うには薬研《やげん》なりに石垣の崩《くづ》れた処がある。崩れた土は丹《に》のやうに赤い。崩れぬ土手《どて》は青芝の上に不相変《あひかはらず》松をうねらせてゐる。其処《そこ》にけふも三四人、裸の人人が動いてゐた。何もさう云ふ人人は酔興《すゐきやう》に泳いでゐる訣《わけ》ではあるまい。しかし行人《かうじん》たる僕の目にはこの前も丁度《ちやうど》西洋人の描《ゑが》いた水浴の油画か何かのやうに見えた、今日《けふ》もそれは同じである。いや、この前はこちらの岸に小便をしてゐる土工があつた。けふはそんなものを見かけぬだけ、一層《いつそう》平和に見えた位である。
僕はかう云ふ景色を見ながら、やはり歩みをつづけてゐた。すると突然濠の上から、思ひもよらぬ歌の声が起つた。歌は「懐《なつか》しのケンタツキイ」である。歌つてゐるのは水の上に頭ばかり出した少年である。僕は妙な興奮を感じた。僕の中にもその少年に声を合せたい心もちを感じた。少年は無心に歌つてゐるのであらう。けれども歌は一瞬の間《あひだ》にいつか僕を捉《とら》へてゐた否定の精神を打ち破つたのである。
芸術は生活の過剰《くわじよう》ださうである。成程《なるほど》さうも思はれぬことはない。しかし人間を人間たらしめるものは常に生活の過剰である。僕等は人間たる尊厳の為に生活の過剰を作らなければならぬ。更に又|巧《たく》みにその過剰を大いなる花束《はなたば》に仕上げねばならぬ。生活に過剰をあらしめるとは生活を豊富にすることである。
僕は丸《まる》の内《うち》の焼け跡を通つた。けれども僕の目に触れたのは猛火も亦《また》焼き難い何ものかだつた。
二 大
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