もつと》も見まほしけれ。若し世に細君の自ら筆を染めて、細かに良人が日常の振舞を書き取れる日記と、金銀出納帳とだにあらば、之れに優る伝記の材料はなかるべし。
「世評に善くいはるる人も、実際はそれ程の大人物に非ず、悪くいはるる人も、亦それ程の悪人にあらず、古今皆|然《しか》り。個人の貫目《くわんめ》を量らんには、世評の封袋《ふうたい》を除くことを忘るべからず。
「智慧できて、気性の強くなりしものあり。弱りしものあり。
「成る可く労力を節約して成るべく多く成功するの工夫を運《めぐ》らすべし。さりとて相場師に為れと言ふには非ず。但《ただ》し人事なべて多少投機の性質を帯ぶるものと念《おも》ふべし。
「愚人を相手に得々然たること能はざる政治家は、輿論政治の世に政治家たる資格なきものと知るべし。」
 男女とも尻つ尾さへぶら下げてゐなければ、一人前の人間だと考へるのは三千年来の誤謬《ごびう》である。一人前の人間となる為には、まづ脳髄と称へられる灰白色の塊にも一人前の皺襞《すうへき》を具へなければならぬ。この大久保湖州と云ふ書生は確かに孔雀や猿を脱した一人前の脳髄を所有してゐる。いや、一人前所ではないか
前へ 次へ
全26ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング