人質を出した時である。)於義丸は即ち黄門秀康の幼称にして、家婢お万の生む所、家康之を愛して孕みしかば、嫉妬深き築山夫人《つきやまふじん》の怨を避けて、本多豊後守広孝が家老本多半左衛門が許に忍びしを、作左衛門密かに家康に訴へて之を営救せしなりとぞ。(中略)生まれし児は作左またおのが子として之れを養ひ、三歳のとき、兄信康この愛弟を連れて家康に見え、始めて実の父の膝に抱かれぬ。之れを尤も喜びしは、父よりも兄よりも、将た其の幼児よりも実は他人の作左衛門なるべし。(中略)
「許多《あまた》の武士味方の大家に遣はすめでたき養子と喜ばで、一時和したる敵国に遣はす質子なりと思ひ做しし中にも、作左衛門特に此念強かるべく、許さぬ仇敵の詐術と見ては、縦《たと》ひ戦国の世の習ひながらも、豪鋭の性いかで一冷笑に附し去るべき。而《し》かも今は此の作左が身に、己れ多年養ひ進らせし公子をば、そが犠牲に供せざるべからざる難題、直接に降り懸りぬ。(中略)※[#「魚+更」、第3水準1−94−42]諤《かうがく》の作左を首肯せしめしには、家康必ず若干の苦労ありしなるべく、作左も亦己れを抑えて、もだし難き君命を奉ぜしには、千鈞《せんきん》の力をもて勇断せしなるべし。而して僅に十一歳の幼者をば、識らぬ人に託して遣るに忍びで、遂におのが一人の愛児をもさし出だして、其の行を共にせしむるに至りき、奉公の衷心、亦何ぞ美なるや。離別の際、作左が武骨の哀情[#「武骨の哀情」に傍点]眼前に髣髴たり。是より作左が心は常に上方に馳せて、二人の身の上に到ると共に、秀吉が振舞を注目することも一層厳刻となりしなるべし。(中略)
「さる程に(中略)徳川の家中にては、弥増す敵意と猜念[#「弥増す敵意と猜念」に傍点]とをもて、上方の空を眺めつつ、変心測られぬ秀吉、いつ攻め来んも知り難しと、衆情枕をさへ安んぜざりし折柄、とりどりの流言伝はり、中にも秀吉於義丸等を殺すべしとの風聞は、痛く一家の人心をぞ刺しにける。(中略)家康は流石に忍刻の人、冷然として言へらく、『秀康今は我子にあらで、秀吉が子なり。之を殺すは秀吉の不義なり。殺さば殺せ』と。想ふに秀吉往々威喝を用ゐて人を屈するを慣術とすれども、亦敢て籠裡《ろうり》の小禽をば無益に殺生せん暴人にはあらじ。家康の智いかで之れを識らざることのあるべき。其の自若として無慙《むざん》の蜚説《ひせつ》に意を留めざるは、恐らくは此の辺の観察もあるに依るなるべし。されど作左はまた斯くの如く冷酷に看過する能はずして、以為《おも》へらく『いや/\仙千代丸都におきて、人の疑うけん[#「人の疑うけん」に傍点]事も詮なし。ただひとりある子、うしなはんも不便なり』と。直に母の大病に言《こと》よせて、永訣《えいけつ》のためにとて呼び還しぬ。蓋《けだ》し作左我が子の愛情もさることながら、おのが多年育て上げし公子が身危しと聴きては、其の痛傷の感いかで仙千代を念ふにも劣るべき。既に秀吉に与へし上は、今更これを取返さんやうも無けれど、其の儘都に置きては、不安の想ひに得堪へで、仙千代が身に先だちて、必ず家康に公子が事を訴へしなるべく、座上無道の秀吉を罵りし憤慨の豪気も察せられたり。家康も於義丸は兎も角、仙千代招還せんことは作左が老情を酌みて、喜びて許ししなるべく、母が大病とは円滑に聞こえて、否み難き好辞柄《かうじへい》なりけり。猛き作左も子さへ還らばと、斯くは穏便に言ひ做ししなるべし。腹黒き主人の注意もありなん乎。且つ夫《そ》れ仙千代と共に随ひ行きし勝千代が父は、彼の秀吉が覚よき石川伯耆守にして、徳川の家中には、兼ねてより、窃《ひそか》に其の二心を疑へる者さへありければ、作左は素より忠侃《ちうかん》一辺の男なれど、当時雑説紛々の折柄、伯耆守と共に子思ひの作左が心底も動かずやと、家中の噂にも上りしことあるべく、疚《やま》しからぬ腹を揣摩《しま》せられて、潔白を傷けんも口惜しと、さてこそ思へば待てぬ作左衛門、急に疑の種をば引き戻すに至りしなるべけれ。」
これは本多作左衛門と共に秀吉に雌伏する家康を論じた「鬼作左」の中の一節である。諸君は今もなほ大久保湖州を明治の才人の一人に数へる僕の蒙を笑殺するであらうか? 笑殺するとしないとは勿論諸君の随意である。唯僕は前に挙げた「伝記私言数則」の中に、「天|自《みづか》ら言はず、人をして言はしむ、されど人の声は、必ずしも天の声と一致せず、人の褒貶毀誉《ほうへんきよ》は、数々《しばしば》天の公裁と齟齬《そご》す。人世尤も憐むべきは、生前天の声を聞かずして死に入るものと為す。後人《こうじん》は彼が為めに、天に代り死後の知己たらざるべからず」の語を読んだ時、我々の忘れてゐた湖州の為に愴然の感を深うした。僕の文章は何であるにしろ、厳粛なる天の声などを代弁しないことは
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