続野人生計事
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鼻糞《はなくそ》
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(例)全然|面白味《おもしろみ》の
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(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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一 放屁
アンドレエフに百姓が鼻糞《はなくそ》をほじる描写《べうしや》がある。フランスに婆さんが小便をする描写がある。しかし屁《へ》をする描写のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。
出あつたことのないといふのは、西洋の小説にはと云ふ意味である。日本の小説にはない訣《わけ》ではない。その一つは青木健作《あをきけんさく》氏の何《なん》とかいふ女工の小説である。駈落《かけお》ちをした女工が二人《ふたり》、干藁《ほしわら》か何かの中に野宿する。夜明《よあけ》に二人とも目がさめる。一人《ひとり》がぷうとおならをする。もう一人がくすくす笑ひ出す――たしかそんな筋だつたと思ふ。その女工の屁をする描写は予《よ》の記憶に誤りがなければ、甚だ上品に出来上つてゐた。予は此《こ》の一段を読んだ為に、今日《こんにち》もなほ青木氏の手腕に敬意を感じてゐる位なものである。
もう一つは中戸川吉二《なかとがはきちじ》氏の何《なん》とか云ふ不良少年の小説である。これはつい三四箇月以前、サンデイ毎日に出てゐたのだから、知つてゐる読者も多いかも知れない。不良少年に口説《くど》かれた女が際《きわ》どい瞬間におならをする、その為に折角《せつかく》醸《かも》されたエロチツクな空気が消滅する、女は妙につんとしてしまふ、不良少年も手が出せなくなる――大体《だいたい》かう云ふ小説だつた。この小説も巧みに書きこなしてある。
青木氏の小説に出て来る女工は必《かならず》しもおならをしないでも好《よ》い。しかし中戸川氏の小説に出て来る女は嫌《いや》でもおならをする必要がある。しなければ成り立たない。だから屁《へ》は中戸川《なかとがは》氏を得た後《のち》始めて或重大な役目を勤めるやうになつたと云ふべきである。
しかしこれは近世のことである。宇治拾遺物語《うぢしふゐものがたり》によれば、藤大納言忠家《とうだいなごんただいへ》[#「ルビの「とうだいなごんただいへ」は底本では「とうだいなごんだたいへ」]も、「いまだ殿上人《てんじやうびと》におはしける時、びびしき色好《いろごの》みなりける女房《にようぼう》ともの云ひて、夜更《よふ》くるほどに月は昼よりもあかかりけるに」たへ兼《か》ねてひき寄せたら、女は「あなあさまし」と云ふ拍子《ひやうし》に大きいおならを一つした。忠家はこの屁《へ》を聞いた時に「心うきことにも逢ひぬるかな。世にありて何かはせん。出家《しゆつけ》せん」と思ひ立つた。けれども、つらつら考へて見れば、何も女が屁をしたからと云つて、坊主《ばうず》にまでなるには当りさうもない。忠家は其処《そこ》に気がついたから、出家することだけは見合せたが、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そうそう》その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文学史的に批評すれば、前人未発と云ふことは出来ない。しかし断えたるを継《つ》いだ功は当然同氏に属《ぞく》すべきである。この功は多分中戸川氏自身の予想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序《ついで》に此処《ここ》に吹聴《ふいちやう》することにした。
二 女と影
紋服を着た西洋人は滑稽《こつけい》に見えるものである。或は滑稽に見える余り、西洋人自身の男振《をとこぶり》などは滅多《めつた》に問題にならないものである。クロオデル大使の「女と影」も、云はば紋服を着た西洋人だつたから、一笑に付せられてしまつたのであらう。しかし当人の男ぶりは紋服たると燕尾服《えんびふく》たるとを問はず独立に美醜を論ぜらるべきである。「女と影」に対する世評は存外《ぞんぐわい》この点に無頓着《むとんぢやく》だつたらしい。さう男ぶりを閑却するのは仏蘭西《フランス》人たる大使にも気の毒である。
試みにあの作品の舞台をペルシアか印度《インド》かへ移して見るが好《よ》い。桃《もも》の花の代りに蓮《はす》の花を咲かせ、古風な侍《さむらひ》の女房の代りに王女か何か舞はせたとすれば、毒舌に富んだ批評家と雖《いへど》も、今日《こんにち》のやうに敢然とは鼎《かなへ》の軽重を問はなかつたであらう。況《いはん》やあの作品にさへ三歎の声を惜《おし》まなかつた鑑賞上の神秘主義者などは勿論無上の法悦《はふえつ》の為に即死を遂げたのに相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。
しかし男ぶりは姑《しばら》く問はず、紋服そのものの感じにしても、全然|面白味《おもしろみ》のない訣《わけ》ではない。成程《なるほど》「女と影」なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍《にぶ》い為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描《か》かうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描《か》いてすましてゐるのである。思ふに虎になり損《そこ》なつた彼は小説家になり損《そこ》なつた批評家のやうに、義理にも面白《おもしろ》いとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来|野師《やし》の儲《まう》けたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木戸銭《きどせん》をも抛《なげう》つ筈はない。
これは「女と影」ばかりではない。「サムラヒ」とか「ダイミヤウ」とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可笑《をか》しいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善《よ》く云へば阿蘭陀《オランダ》の花瓶《くわびん》に似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏狭《へんけふ》の譏《そしり》を免《まぬか》れないであらう。予は野口米次郎《のぐちよねじらう》氏の如き、或は郡虎彦《こほりとらひこ》氏の如き、西洋に名を馳《は》せた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣幸《きんかう》とし、偏狭《へんけふ》な日本人に却《しりぞ》けられたことをクロオデル大使の為に遺憾《ゐかん》とするのである。
仄聞《そくぶん》するところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣《わけ》か、西洋|輓近《ばんきん》の芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに「女と影」の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古今《ここん》を問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は――予は先夜|細川侯《ほそかはこう》の舞台に桜間金太郎《さくらまきんたらう》氏の「すみだ川」を見ながら欠伸《あくび》をしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半可通《はんかつう》をふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏蘭西《フランス》の大使クロオデル閣下、どうか悪《あ》しからずお読み下さい。
三 ピエル・ロテイの死
ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが「お菊《きく》夫人」「日本の秋」等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小泉八雲《こいづみやくも》一人《ひとり》を除けば、兎《と》に角《かく》ロテイは不二山《ふじさん》や椿《つばき》やベベ・ニツポンを着た女と最も因縁《いんねん》の深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。
ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背《せい》の高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒情詩《じよじやうし》を与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何《なん》でもないのに違ひない。提燈《ちやうちん》は火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合羽《かつぱ》のやうに雨が凌《しの》げぬにしろ、軽蔑《けいべつ》して好《よ》いと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御厄介《ごやくかい》にならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢面《やおもて》には如何《いか》なる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利《き》き目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土砂降《どしやぶり》りの往来に似た人生を辿《たど》る人足《にんそく》である。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に「偉い」と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、――勿論《もちろん》合羽の施行《せぎやう》をする人に過ぎない。
又ロテイはこの数年間、仏蘭西《フランス》文壇の「人物」だつたにせよ、仏蘭西文壇の「力」ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長逝《ちやうせい》に哀悼《あいたう》の念を抱《いだ》いてゐる。ロテイの描《か》いた日本はヘルンの描いた日本よりも、真《しん》を伝へない画図《ぐわと》かも知れない。しかし兎《と》に角《かく》好画図たることは異論を許さない事実である。我我の姉妹たるお菊さんだの或は又お梅さんだのは、ロテイの小説を待つた後《のち》、巴里《パリ》の敷石の上をも歩むやうになつた。我我は其処《そこ》にロテイに対する日本の感謝を捧げたいと思ふ。なほロテイの生涯は大体左に示す通りである。
千八百五十年一月十四日、ロテイはロシユフオオルで生れ、十七歳の時、海軍に入り、千九百六年大佐になつた。大佐になつたのは数へ年で五十七の時である。
最初の作は千八百七十九年、即三十歳の時|公《おほやけ》にした 〔Aziyade'〕 である。後ち一年、千八百八十年に Rarahu を出して一躍流行児になつた。これは二年の後《のち》「ロテイの結婚」と改題再刊されたものである。
かの「お菊さん」は千八百八十七年に、「日本の秋」は八十九年に公《おほやけ》にされた。
アカデミイの会員に選まれたのは九十一年、数へて四十二歳の時である。
彼は、国際電報の伝ふるところによると、十日アンダイエで死んだのである。時に歳七十三。
四 新緑の庭
桜 さつぱりした雨上《あまあが》りです。尤《もつと》も花の萼《がく》は赤いなりについてゐますが。
椎《しひ》 わたしもそろそろ芽《め》をほごしませう。このちよいと鼠がかつた芽をね。
竹 わたしは未《いま》だに黄疸《わうだん》ですよ。……
芭蕉《ばせう》 おつと、この緑のランプの火屋《ほや》を風に吹き折られる所だつた。
梅 何だか寒気《さむけ》がすると思つたら、もう毛虫がたかつてゐるんだよ。
八《や》つ手《で》 痒《かゆ》いなあ、この茶色の産毛《うぶげ》のあるうちは。
百日紅《さるすべり》 何、まだ早うござんさあね。わたしなどは御覧の通り枯枝ばかりさ。
霧島躑躅《きりしまつつじ》 常《じやう》――常談《じやうだん》云つちやいけない。わたしなどはあまり忙《せは》しいものだから、今年《ことし》だけはつい何時《いつ》にもない薄紫《うすむらさき》に咲いてしまつた。
覇王樹《サボテン》 どうでも勝手にするが好《い》いや。おれの知つたことぢやなし。
石榴《ざく
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