烽フは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺《へん》そろそろ上《のぼ》り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。尤《もつと》も崖側《がけぎは》の竹藪は不相変《あひかはらず》黄ばんだままなのだが……おつと向うから馬が来たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己《おれ》の顔もみんな目玉の中に映《うつ》つてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。
「生ミタテ玉子《タマゴ》アリマス。」
アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入《イ》リマセン。――春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。
六 霜夜
霜夜《しもよ》の記憶の一つ。
いつものやうに机に向つてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寝ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉じ、それからあした坐り次第、直《すぐ》に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用《いりよう》の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の火の始末《しまつ》をする。はんねら[#「はんねら」に傍点]の瓶《かめ》に鉄瓶《てつびん》の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黒くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸気ももやもや立ち昇る。何か楽しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床《とこ》は次の間《ま》にとつてある。次の間も書斎も二階である。寝る前には必ず下へおり、のびのびと一人《ひとり》小便をする。今夜もそつと二階を下《お》りる。家族の眼をさまさせないやうに、出来るだけそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外《そと》を通りかかると、六十八になる伯母《をば》が一人《ひとり》、古い綿《わた》をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。
「伯母《をば》さん」と云ふ。「まだ起きてゐたの?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寝るのだらう?」と云ふ。後架《こうか》の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる、風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。唯寒い夜《よる》に封じられてゐる。
[#天から3字下げ]薄綿《うすわた》はのばし兼ねたる霜夜《しもよ》かな
七 蒐集
僕は如何《いか》なる時代でも、蒐集癖《しうしふへき》と云ふものを持つたことはない。もし持つたことがあるとすれば、年少時代に昆虫類の標本《へうほん》を集めたこと位であらう。現在は成程《なるほど》書物だけは幾らか集まつてゐるかも知れない。しかしそれも集まつたのである。落葉の風だまりへ集まるやうに自然と書棚《しよだな》へ集まつたのである。何も苦心して集めた訣《わけ》ではない。
書物さへ既《すで》にさうである。況《いはん》や書画とか骨董《こつとう》とかは一度も集めたいと思つたことはない。尤《もつと》もこれはと思つたにしろ、到底《たうてい》我我売文の徒には手の出ぬせゐでもありさうである。しかし僕の集めたがらぬのは必《かならず》しもその為ばかりではない。寧《むし》ろ集めたいと云ふ気持に余り快哉《くわいさい》を感ぜぬのである。或は集めんとする気組みに倦怠《けんたい》を感じてしまふのである。
これは智識も同じことである。僕はまだ如何《いか》なる智識も集めようと思つて集めたことはない。尤《もつと》も集めたと思はれるほど、智識のないことも事実である。しかし多少でもあるとすれば、兎《と》に角《かく》集まつたと云はなければならぬ。
蒐集家《しうしふか》は情熱に富んだものである。殊にたつた一枚のマツチの商標《しやうへう》を手に入れる為に、世界を周遊する蒐集家などは殆《ほとん》ど情熱そのものである。だから情熱を軽蔑しない限り、蒐集家も一笑《いつせう》に付することは出来ない。しかし僕は蒐集家とは別の鋳型《いがた》に属してゐる。同時に又革命家や予言者とも別の鋳型に属してゐる。
僕はマツチの商標に対する情熱にも同情を感じてゐる。いや、同情と云ふ代りに敬意と云つても差支《さしつか》へない。しかしマツチの商標の価値にはどちらかと云へば懐疑的である。僕は以前かう云ふ気質を羞《は》づかしいと思つたことがあつた。けれども面皮《めんぴ》の厚くなつた今はさほど卑下《ひげ》する気もちにもなれない。――
八 知己料
僕等は当時「新思潮《しんしてう》」といふ同人雑誌《どうじんざつし》に楯《たて》こもつてゐた。「新思潮」以外の雑誌にも時時作品を発表するのは久米正雄《くめまさを》一人《ひとり》ぎりだつた。そこへ「希望」といふ雑誌社から、突然僕へ宛てた手紙が来た。手紙には、五月号に間《ま》に合ふやうに短篇を一つお願ひしたい。御都合《ごつが
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