モ》は如何《いかが》と書いてあつた。僕は勿論|快諾《くわいだく》した。
 僕は一週間たたない内に、「虱《しらみ》」といふ短篇を希望社へおくつた。それから――原稿料の届くのを待つた。最初の原稿料を待つ気もちは売文の経験のない人には、ちよいと想像が出来ないかも知れない。僕も少し誇張すれば、直侍《なほざむらひ》を待つ三千歳《みちとせ》のやうに、振替《ふりかへ》の来る日を待ちくらしたのである。
 原稿料は容易に届かなかつた。僕はたびたび久米正雄と、希望社は僕の短篇にいくら払ふかを論じ合つた。
「一円は払ふね。一円ならば十二枚十二円か。そんなことはない。一円五十銭は大丈夫払ふよ。」
 久米《くめ》はかういふ予測を下した。何《なん》だかさう云はれて見れば、僕も一円五十銭は払つてもらはれさうな心もちになつた。
「一円五十銭払つたら、八円だけおごれよ。」
 僕はおごると約束した。
「一円でも、五円はおごる義務があるな。」
 久米はまたかういつた。僕はその義務を認めなかつた。しかし五円だけ割愛《かつあひ》することには、格別異存も持たなかつた。
 その内に「希望」の五月号が出、同時に原稿料も手にはひつた。僕はそれをふところにしたまま、久米の下宿へ出かけて行つた。
「いくら来た? 一円か? 一円五十銭か?」
 久米は僕の顔を見ると、彼自身のことのやうに熱心にたづねた。僕は何《なん》ともこたへずに、振替《ふりかへ》の紙を出して見せた。振替の紙には残酷《ざんこく》にも三円六十銭と書いてあつた。
「三十銭か。三十銭はひどいな。」
 久米もさすがになさけない顔をした。僕はなほ更|仏頂《ぶつちやう》づらをしてゐた。が、僕等はしばらくすると、同時ににやにや笑ひ出した。久米はいはゆる微苦笑《びくせう》をうかべ、僕は手がるに苦笑したのである。
「三十銭は知己料《ちきれう》をさしひいたんだらう。一円五十銭マイナス三十銭――一円二十銭の知己料は高いな。」
 久米はこんなことをいひながら、振替の紙を僕にかへした。しかしもうこの間のやうに、おごれとか何《なん》とかはいはなかつた。

     九 妄問妄答

 客 菊池寛《きくちくわん》氏の説によると、我我は今度の大《だい》地震のやうに命も危いと云ふ場合は芸術も何もあつたものぢやない。まづ命あつての物種《ものだね》と尻端折《しりはしよ》りをするのに忙《いそが》しさうだ。しかし実際さう云ふものだらうか?
 主人 そりや実際さう云ふものだよ。
 客 芸術上の玄人《くろうと》もかね? たとへば小説家とか、画家とか云ふ、――
 主人 玄人《くろうと》はまあ素人《しろうと》より芸術のことを考へさうだね。しかしそれも考へて見れば、実は五十歩百歩なんだらう。現在頭に火がついてゐるのに、この火焔をどう描写しようなどと考へる豪傑《がうけつ》はゐまいからね。
 客 しかし昔の侍《さむらひ》などは横腹を槍《やり》に貫かれながら、辞世《じせい》の歌を咏《よ》んでゐるからね。
 主人 あれは唯名誉の為だね。意識した芸術的衝動などは別のものだね。
 客 ぢや我我の芸術的衝動はああ云ふ大変に出合つたが最後、全部なくなつてしまふと云ふのかね?
 主人 そりや全部はなくならないね。現に遭難民《さうなんみん》の話を聞いて見給へ。思ひの外《ほか》芸術的なものも沢山《たくさん》あるから。――元来芸術的に表現される為にはまづ一応《いちおう》芸術的に印象されてゐなければならない筈だらう。するとさう云ふ連中は知らず識らず芸術的に心を働かせて来た訣《わけ》だね。
 客 (反語的に)しかしさう云ふ連中も頭に火でもついた日にや、やつぱり芸術的衝動を失うことになるだらうね?
 主人 さあ、さうとも限らないね。無意識の芸術的衝動だけは案外《あんぐわい》生死の瀬戸際《せとぎは》にも最後の飛躍をするものだからね? 辞世の歌で思ひ出したが、昔の侍の討死《うちじに》などは大抵《たいてい》戯曲的或は俳優的衝動の――つまり俗に云ふ芝居気《しばゐぎ》の表はれたものとも見られさうぢやないか?
 客 ぢや芸術的衝動はどう云ふ時にもあり得ると云ふんだね?
 主人 無意識の芸術的衝動はね。しかし意識した芸術的衝動はどうもあり得るとは思はれないね。現在頭に火がついてゐるのに、………
 客 それはもう前にも聞かされたよ。ぢや君も菊池寛《きくちくわん》氏に全然|賛成《さんせい》してゐるのかね?
 主人 あり得ないと云ふことだけはね。しかし菊池氏はあり得ないのを寂しいと云つてゐるのだらう? 僕は寂しいとも思はないね、当り前だとしか思はないね。
 客 なぜ?
 主人 なぜも何もありやしないさ。命あつての物種《ものだね》と云ふ時にや、何も彼《か》も忘れてゐるんだからね。芸術も勿論《もちろん》忘れる筈ぢやないか?
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