そかはこう》の舞台に桜間金太郎《さくらまきんたらう》氏の「すみだ川」を見ながら欠伸《あくび》をしてゐたクロオデル大使に同情の微笑を禁じ得なかつた。すると半可通《はんかつう》をふりまはすことは大使も予もお互ひ様である。仏蘭西《フランス》の大使クロオデル閣下、どうか悪《あ》しからずお読み下さい。
三 ピエル・ロテイの死
ピエル・ロテイが死んださうである。ロテイが「お菊《きく》夫人」「日本の秋」等の作者たることは今更辯じ立てる必要はあるまい。小泉八雲《こいづみやくも》一人《ひとり》を除けば、兎《と》に角《かく》ロテイは不二山《ふじさん》や椿《つばき》やベベ・ニツポンを着た女と最も因縁《いんねん》の深い西洋人である。そのロテイを失つたことは我我日本人の身になるとまんざら人ごとのやうに思はれない。
ロテイは偉い作家ではない。同時代の作家と比べたところが、余り背《せい》の高い方ではなささうである。ロテイは新らしい感覚描写を与へた。或は新らしい抒情詩《じよじやうし》を与へた。しかし新らしい人生の見かたや新らしい道徳は与へなかつた。勿論これは芸術家たるロテイには致命傷でも何《なん》でもないのに違ひない。提燈《ちやうちん》は火さへともせれば、敬意を表して然るべきである。合羽《かつぱ》のやうに雨が凌《しの》げぬにしろ、軽蔑《けいべつ》して好《よ》いと云ふものではない。しかし雨が降つてゐるから、まづ提燈は持たずとも合羽の御厄介《ごやくかい》にならうと云ふのはもとより人情の自然である。かう云ふ人情の矢面《やおもて》には如何《いか》なる芸術至上主義も、提燈におしなさいと云ふ忠告と同様、利《き》き目のないものと覚悟せねばならぬ。我我は土砂降《どしやぶり》りの往来に似た人生を辿《たど》る人足《にんそく》である。けれどもロテイは我我に一枚の合羽をも与へなかつた。だから我我はロテイの上に「偉い」と云ふ言葉を加へないのである。古来偉い芸術家と云ふのは、――勿論《もちろん》合羽の施行《せぎやう》をする人に過ぎない。
又ロテイはこの数年間、仏蘭西《フランス》文壇の「人物」だつたにせよ、仏蘭西文壇の「力」ではなかつた。だから彼の死も実際的には格別影響を及ぼさないであらう。唯我我日本人は前にもちよいと云つた通り、美しい日本の小説を書いた、当年の仏蘭西の海軍将校ジユリアン・ヴイオオの長逝《ち
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