に相違あるまい。クロオデル大使は紋服の為にこの位損な目を見てゐるのである。
しかし男ぶりは姑《しばら》く問はず、紋服そのものの感じにしても、全然|面白味《おもしろみ》のない訣《わけ》ではない。成程《なるほど》「女と影」なるものは日本のやうな西洋のやうな、妙にとんちんかんな作品である。けれどもあのとんちんかんのところは手腕の鈍《にぶ》い為に起つたものではない。日本とか我我日本人の芸術とかに理解のない為に起つたものである。虎を描《か》かうと思つたのが猫になつてしまつたのではない。猫も虎も見わけられないから、同じやうに描《か》いてすましてゐるのである。思ふに虎になり損《そこ》なつた彼は小説家になり損《そこ》なつた批評家のやうに、義理にも面白《おもしろ》いとは云はれたものではない。けれども猫とも虎ともつかない、何か怪しげな動物になれば、古来|野師《やし》の儲《まう》けたのはかう云ふ動物恩恵である。我我は面白いと思はないものに一銭の木戸銭《きどせん》をも抛《なげう》つ筈はない。
これは「女と影」ばかりではない。「サムラヒ」とか「ダイミヤウ」とか云ふエレデイアの詩でも同じことである。ああ云ふ作品は可笑《をか》しいかも知れない。しかしその可笑しいところに、善《よ》く云へば阿蘭陀《オランダ》の花瓶《くわびん》に似た、悪く云へばサムラヒ商会の輸出品に似た一種のシヤルムがひそんでゐる。このシヤルムさへ認めないのは偏狭《へんけふ》の譏《そしり》を免《まぬか》れないであらう。予は野口米次郎《のぐちよねじらう》氏の如き、或は郡虎彦《こほりとらひこ》氏の如き、西洋に名を馳《は》せた日本人の作品も、その名を馳せた一半の理由はこのシヤルムにあつたことを信じてゐる。と云ふのは勿論両氏の作品に非難を加へようと云ふのではない。寛大な西洋人に迎へられたことを両氏の為に欣幸《きんかう》とし、偏狭《へんけふ》な日本人に却《しりぞ》けられたことをクロオデル大使の為に遺憾《ゐかん》とするのである。
仄聞《そくぶん》するところによれば、クロオデル大使はどう云ふ訣《わけ》か、西洋|輓近《ばんきん》の芸術に対する日本人の鑑賞力に疑惑を抱いてゐるさうである。まことに「女と影」の如きも、予などの批評を許さないかも知れない。しかし時の古今《ここん》を問はず、わが日本の芸術に対する西洋人の鑑賞力は――予は先夜|細川侯《ほ
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