@僕などは大地震どころぢやないね。小便のつまつた時にさへレムブラントもゲエテも忘れてしまふがね。格別その為に芸術を軽んずる気などは起らないね。
 客 ぢや芸術は人生にさ程痛切なものぢやないと云ふのかね。
 主人 莫迦《ばか》を云ひ給へ。芸術的衝動は無意識の裡《うち》にも我我を動かしてゐると云つたぢやないか? さうすりや芸術は人生の底へ一面深い根を張つてゐるんだ。――と云ふよりも寧《むし》ろ人生は芸術の芽《め》に満ちた苗床《なへどこ》なんだ。
 客 すると「玉は砕《くだ》けず」かね?
 主人 玉は――さうさね。玉は或は砕けるかも知れない。しかし石は砕けないね。芸術家は或は亡びるかも知れない。しかしいつか知らず識らず芸術的衝動に支配される熊《くま》さんや八《はち》さんは亡びないね。
 客 ぢや君は問題になつた里見《さとみ》氏の説にも菊池《きくち》氏の説にも部分的には反対だと云ふのかね。
 主人 部分的には賛成だと云ふことにしたいね。何しろ両雄の挾《はさ》み打ちを受けるのはいくら僕でも難渋だからね。ああ、それからまだ菊池氏の説には信用出来ぬ部分もあるね。
 客 信用の出来ぬ部分がある?
 主人 菊池氏は今度|大向《おほむか》うからやんやと喝采《かつさい》される為には※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》が必要だと云ふことを痛感したと云つてゐるだらう。あれは余り信用出来ないね。恐らくはちよつと感じた位だね。まあ、もう少し見てゐ給へ。今に又何かほんたうのことをむきになつて云ひ出すから。

     十 梅花に対する感情

[#天から8字下げ]このジヤアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず

 予等《よら》は芸術の士なるが故に、如実《によじつ》に万象を観《み》ざる可《べか》らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴツホの向日葵《ひまはり》の写真版の今日《こんにち》もなほ愛翫《あいぐわん》せらるる、豈《あに》偶然の結果ならんや。(幸ひにGOGHをゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎《とが》むること勿れ。予はANDERSENをアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)
 こは芸術を使命とするものには白日《はくじつ》よりも明らかなる事実なり。然れども独
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