》 ちよいと枝一面に蚤《のみ》のたかつたやうでせう。
苔《こけ》 起きないこと?
石 うんもう少し。
楓《かへで》 「若楓《わかかへで》茶色になるも一盛《ひとさか》り」――ほんたうにひと盛りですね。もう今は世間並みに唯水水しい鶸色《ひわいろ》です。おや、障子《しやうじ》に灯《ひ》がともりました。
五 春の日のさした往来《わうらい》をぶらぶら一人歩いてゐる
春の日のさした往来をぶらぶら一人《ひとり》歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽《なかをればう》をかぶり、ゴムか何かの長靴《ながぐつ》をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿《もも》も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子《ひやうし》に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。
顔馴染《かほなじみ》の道具屋を覗《のぞ》いて見る。正面の紅木《こうぼく》の棚《たな》の上に虫明《むしあ》けらしい徳利《とくり》が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻《わいせつ》に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前《こびぜん》の徳利の口もちよいと接吻《せつぷん》位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色《あゐいろ》の柳の枝垂《しだ》れた下にやはり藍色の人が一人《ひとり》、莫迦《ばか》に長い釣竿《つりざを》を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗《のぞ》きこんで見たら、金沢《かなざわ》にゐる室生犀星《むろふさいせい》!
又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋《やほや》の店に慈姑《くわゐ》がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七宝《でいしつぱう》の青に似てゐる。あの慈姑《くわゐ》を買はうかしら。※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》をつけ。買ふ気のないことは知つてゐる癖に。だが一体どう云ふものだらう、自分にも※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつきたい気のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主《ごていしゆ》も気楽さうに山雀《やまがら》の籠の中に坐つてゐる!
「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」
「カントの論文に崇《たた》られたんだね。」
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人《ふたり》。ちよいと聞いた他人の会話と云ふ
前へ
次へ
全16ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング