ハじるのを常としてゐる。それは必しも偶然ではない。直《ただ》ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危険である。)或はクリストの母だつたと云ふ以外に所謂《いはゆる》ニウス・ヴアリユウのない女人である。弟子たちの足さへ洗つてやつたクリストは勿論マリアの足もとにひれ伏したかつたことであらう。しかし彼の弟子たちはこの時も彼を理解しなかつた。
「お前たちはもう綺麗《きれい》になつた。」
 それは彼の謙遜の中に死後に勝ち誇る彼の希望(或は彼の虚栄心)の一つに溶け合つた言葉である。クリストは事実上逆説的にも正にこの瞬間には彼等に劣つてゐると同時に彼等に百倍するほどまさつてゐた。

     12[#「12」は縦中横] 最大の矛盾

 クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも関らず彼自身を理解出来なかつたことである。彼は庭鳥《にはとり》の啼《な》く前にペテロさへ三度クリストを知らないと云ふことを承知してゐた。彼の言葉はその外にも如何に我々人間の弱いかと云ふことを教へてゐる。しかも彼は彼自身もやはり弱いことを忘れてゐた。クリストの一生を背景にしたクリスト教を理解することはこの為
前へ 次へ
全20ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング