たから、おれに会ふ事もやむを得ず断念をしたと書いてある。おれは昨夜《ゆうべ》あの混血児《あひのこ》の女が抛《はう》りこんだ、薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花を踏みながら、わざわざ玄関まで下りて行つて、電鈴の具合《ぐあひ》を調べて見た。すると知らない間《ま》に電鈴の針金が錆《さ》びたせゐか、誰かの悪戯《いたづら》か、二つに途中から切れてゐる。おれの心は重くなつた。おれがあの黄いろい窓掛の後《うしろ》に住んでゐる私窩子《しくわし》のやうな女を知らずにゐたら、おれの待ちに待つてゐた客の一人は、とうにこの電鈴の愉快な響を、おれの耳へ伝へたのに相違あるまい。
おれは静に又二階へ行つて、窓際の肱掛椅子《ひぢかけいす》に腰を下した。
夕方になると、又向うの家の二階の窓には、絹のキモノを着た女が現れて、下品な嬌態《けうたい》をつくりながら、慇懃《いんぎん》におれへ会釈《ゑしやく》をする。が、おれはもうその会釈には答へない。その代り人気《ひとげ》のない薄明りの往来《わうらい》を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。
[#地から1字上げ](大正八年二月)
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