の人は縁の下の五味《ごみ》まで知つて居ります。」
 婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。
 私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、飛騨《ひだ》の蒲田《がまた》温泉へ出る事が出来るかどうか。近頃噴火の噂がある、焼嶽《やけだけ》へも登山出来るかどうか。槍ヶ嶽の峯伝ひに穂高山《ほたかやま》へ行く事が出来るかどうか。――さう云ふ事が主な問題であつた。男は窮屈さうに畏りながら、無造作にそれらは容易だと答へた。
「旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」
 私は苦笑[#「苦笑」は底本では「苦突」]した。上州《じやうしう》の三山、浅間山《あさまやま》、木曾《きそ》の御嶽《おんたけ》、それから駒《こま》ヶ嶽《たけ》――その外《ほか》山と名づくべき山には、一度も登つた事のない私であつた。
「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」
 男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを
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