あつた。
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、蛇《ぢや》の目《め》蝶《てう》が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。
「これが徳本《とくがう》の峠です」
案内者は私を顧みて云つた。
私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などを堆《うづたか》く肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、彼と私の間の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。
三十分の後、とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた。うす日に蒸された峠の空気は、無気味な静寂を孕んでゐた。馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と蓙《ござ》を煽つて行く私、――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。
と思ふと鈍い翅音がして、青黒い一匹の馬蠅が、ぺたりと私の手の甲に止まつた。さうして其処を鋭く刺した。私は半ば動顛《どうてん》しながら、一打ちにその馬蠅を打ち殺した。「自然は私に敵意を持つてゐる。」――そんな迷信じみた心もちが一層私をわくわくさせた。
私は痛む手を抱へながら、無理やりに足を早め出した。……
三
その日の午後、私たちは水の冷たい梓川《あずさがは》の流を徒渉した。
川を埋め残した森林の上には、飛騨信濃境の山々が、――殊にうす雲つた穂高山が、※[#「山+賛」、145−上−13]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんぐわん》と私たちを見下してゐた。私は水を渡りながら、ふと東京の或茶屋を思ひ出した。その軒に懸つてゐる岐阜提灯も、ありありと眼に見えるやうな気がした。しかし私を繞つてゐるものは、人煙を絶つた谿谷であつた。私は妙な矛盾の感じを頭一ぱいに持ちながら、無愛想な案内者の尻について、漸く対岸を蔽つてゐる熊笹の中へ辿り着いた。
対岸には大きな山毛欅《ぶな》や樅《もみ》が、うす暗く森々《しんしん》と聳えてゐた。稀に熊笹が疎《まばら》になると、雁皮《がんぴ》らしい花が赤く咲いた、湿気の多い草の間に、放牧の牛馬の足跡が見えた。
程なく一軒の板葺の小屋が、熊笹の中から現れて来た。これが小島《こじま》烏水《うすい》氏以来、屡槍ヶ嶽の登山者が一宿する、名高い嘉門治《かもんじ》の小屋であつた。
案内者は小屋の戸を開けると、背負つてゐた荷物を其処へ下した。小屋
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