の人は縁の下の五味《ごみ》まで知つて居ります。」
婢はこんな常談を云ひながら、荒らされた膳を下げて行つた。
私はその男にいろいろ山の事を尋ねた。槍ヶ嶽を越えて、飛騨《ひだ》の蒲田《がまた》温泉へ出る事が出来るかどうか。近頃噴火の噂がある、焼嶽《やけだけ》へも登山出来るかどうか。槍ヶ嶽の峯伝ひに穂高山《ほたかやま》へ行く事が出来るかどうか。――さう云ふ事が主な問題であつた。男は窮屈さうに畏りながら、無造作にそれらは容易だと答へた。
「旦那さへ御歩けになれりや、何処でも訳はありません。」
私は苦笑[#「苦笑」は底本では「苦突」]した。上州《じやうしう》の三山、浅間山《あさまやま》、木曾《きそ》の御嶽《おんたけ》、それから駒《こま》ヶ嶽《たけ》――その外《ほか》山と名づくべき山には、一度も登つた事のない私であつた。
「さうさな。まづ山岳会の連中並みに歩ければ、見つけものと思つて貰はう。」
男が階下へ去つた時、私はすぐに床を敷いて貰つて、古蚊帳の中に横になつた。戸を明け放つた縁側の外には、暗い山に唯一点、赤い炭焼きの火が動いてゐた。それがかすかながら、私の心に、旅愁とも云ふべき寂しさを運んで来た。
やがて婢が戸をしめに来た。戸の走る度に山の上の星月夜が、私の眼界から消えて行つた。間もなく私の寝てゐるまはりは、古蚊帳に四方を遮られた、行燈《あんどん》ばかりの薄暗がりになつた。私は大きな眼をあきながら、古蚊帳の天井を眺めてゐた。するとあの青竹の笛の音が、かすかに又階下から聞えて来た。
二
――山の岨《そば》を一つ曲ると、突然私たちの足もとから、何匹かの獣が走り去つた。
「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」
案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの橡《とち》の大木を見上げた。
橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。
私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が徐《おもむろ》に、[#「に、」は底本では「、に」]梢を伝つて行く姿を眺めた。が、猿は案内者にとつては、猿であるよりも先に獲物であつた。彼は立ち去り難いやうに、橡の梢を仰ぎながら、礫《つぶて》を拾つて投げたりした。
「おい、行かう。」
私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快で
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