の中には大きな囲爐裡が、寂しい灰の色を拡げてゐた。案内者はその天井に懸けてあつた、長い釣竿を取り下してから、私一人を後に残して、夕飯の肴に供すべく、梓川の山女《やまめ》を釣りに行つた。
私は蓙や雑嚢を捨てて暫く小屋の前をぶらついてゐた。すると熊笹の中から、大きな黒斑らの牛が一匹、のそのそ側へやつて来た。私は稍不安になつて小屋の戸口へ退却した。牛は沾《うる》[#「沾」は底本では「沽」]んだ眼を挙げて、じつと私の顔を眺めた。それから首を横に振つて、もう一度熊笹の中へ引き返した。私はその牛の姿に愛と嫌悪とを同時に感じながら、ぼんやり巻煙草に火をつけた……
曇天の夕焼が消えかかつた時、私たちは囲爐裡の火を囲んで、竹串に炙《あぶ》つた山女《やまめ》を肴に、鍋で炊いた飯を貪り食つた。それから毛布に寒気を凌いで、白樺の皮を巻いて造つた、原始的な燈火をともしながら、夜が戸の外に下つた後も、いろいろ山の事を話し合つた。
白樺の火と榾《ほた》の火と、――この明暗二種の火の光は、既に燈火の文明の消長を語るものであつた。私は小屋の板壁に、濃淡二つの私の影が動いてゐるのを眺めながら、山の話の途切れた時には、今更のやうに原始時代の日本民族の生活なぞを想像せずにはゐられなかつた。……
四
――雑木の重なり合つたのを押し開いて、もう一度天日の光を浴びると、案内者は私を顧みながら、
「此処が赤沢《あかざわ》です」と云つた。
私は鳥打帽を阿弥陀《あみだ》にして、眼の前にひらけた光景を眺めた。
私の前に横はるものは、立体の数を尽した大石であつた。それが狭い峡谷の急な斜面を満たしながら、空を劃つた峯々の向うへ、目のとどく限り連つてゐた。もし形容の言葉を着ければ、正に小さな私たち二人は、遠い山巓《さんてん》から漲り落ちる大石の洪水の上にゐるのであつた。
私たちはこの大石に溢れた谷を、――「黄花駒《きばなこま》の爪《つめ》」の咲いてゐる谷を、虫の這ふやうに登り出した。
暫く苦しい歩みを続けた後、案内者は突然杖を挙げて、私たちの左手《ゆんで》に続いてゐる絶壁上を指さしながら、
「御覧なさい。あすこに青猪《あをじし》がゐます」と云つた。
私は彼の杖に沿うて、視線を絶壁の上に投げた。すると荒削りの山の肌が、頂に近く偃《は》ひ松の暗い緑をなすつた所に、小さく一匹の獣が見えた。それが青猪と云
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