棚《ガラスとだな》の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇《だいじゃ》の前に立った。この爬虫類の標本室はちょうど去年の夏以来、三重子《みえこ》と出合う場所に定《さだ》められている。これは何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目《ひとめ》を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当惑《とうわく》を与えるばかりだった。殊に肩上《かたあ》げをおろしたばかりの三重子は当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映《えい》ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製《はくせい》の蛇《へび》や蜥蝪《とかげ》のほかに誰|一人《ひとり》彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇《あ》っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。……
 落ち合う時間は二時である。腕時計の針もいつのまにかちょうど二時を示していた。きょうも十分と待たせるはずはない。――中村はこう考えながら、爬虫類の標本を眺めて行った。しかし生憎《あいにく》彼の心は少しも喜びに躍っ
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