早春
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)浅草《あさくさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一時|正気《しょうき》を失った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十四年一月)
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大学生の中村《なかむら》は薄《うす》い春のオヴァ・コオトの下に彼自身の体温を感じながら、仄暗《ほのぐら》い石の階段を博物館の二階へ登っていった。階段を登りつめた左にあるのは爬虫類《はちゅうるい》の標本室《ひょうほんしつ》である。中村はそこへはいる前に、ちょっと金の腕時計を眺めた。腕時計の針は幸いにもまだ二時になっていない。存外《ぞんがい》遅れずにすんだものだ、――中村はこう思ううちにも、ほっとすると言うよりは損をした気もちに近いものを感じた。
爬虫類の標本室はひっそりしている。看守《かんしゅ》さえ今日《きょう》は歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤《ぼうちゅうざい》の臭《にお》いばかり漂《ただよ》っている。中村は室内を見渡した後《のち》、深呼吸をするように体を伸ばした。それから大きい硝子戸棚《ガラスとだな》の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇《だいじゃ》の前に立った。この爬虫類の標本室はちょうど去年の夏以来、三重子《みえこ》と出合う場所に定《さだ》められている。これは何も彼等の好みの病的だったためではない。ただ人目《ひとめ》を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。公園、カフェ、ステエション――それ等はいずれも気の弱い彼等に当惑《とうわく》を与えるばかりだった。殊に肩上《かたあ》げをおろしたばかりの三重子は当惑以上に思ったかも知れない。彼等は無数の人々の視線の彼等の背中に集まるのを感じた。いや、彼等の心臓さえはっきりと人目に映《えい》ずるのを感じた。しかしこの標本室へ来れば、剥製《はくせい》の蛇《へび》や蜥蝪《とかげ》のほかに誰|一人《ひとり》彼等を見るものはない。たまに看守や観覧人に遇《あ》っても、じろじろ顔を見られるのはほんの数秒の間だけである。……
落ち合う時間は二時である。腕時計の針もいつのまにかちょうど二時を示していた。きょうも十分と待たせるはずはない。――中村はこう考えながら、爬虫類の標本を眺めて行った。しかし生憎《あいにく》彼の心は少しも喜びに躍っていない。むしろ何か義務に対する諦《あき》らめに似たものに充たされている。彼もあらゆる男性のように三重子に倦怠《けんたい》を感じ出したのであろうか? けれども捲怠を生ずるためには同一のものに面しなければならぬ。今日の三重子は幸か不幸か全然|昨日《きのう》の三重子ではない。昨日の三重子は、――山手《やまのて》線の電車の中に彼と目礼だけ交換《こうかん》した三重子はいかにもしとやかな女学生だった。いや、最初に彼と一しょに井《い》の頭《かしら》公園へ出かけた三重子もまだどこかもの優《やさ》しい寂しさを帯びていたものである。……
中村はもう一度腕時計を眺めた。腕時計は二時五分過ぎである。彼はちょっとためらった後《のち》、隣り合った鳥類《ちょうるい》の標本室へはいった。カナリヤ、錦鶏鳥《きんけいちょう》、蜂雀《はちすずめ》、――美しい大小の剥製《はくせい》の鳥は硝子越《ガラスご》しに彼を眺めている。三重子もこう言う鳥のように形骸《けいがい》だけを残したまま、魂《たましい》の美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。そのまた前に会った時にもオペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月《ひとつき》ほど前《まえ》に会った三重子である。三重子はさんざんにふざけた揚句《あげく》、フット・ボオルと称しながら、枕を天井《てんじょう》へ蹴上《けあ》げたりした。……
腕時計は二時十五分である。中村はため息を洩《も》らしながら、爬虫類《はちゅうるい》の標本室《ひょうほんしつ》へ引返した。が、三重子はどこにも見えない。彼は何か気軽になり、目の前の大蜥蜴《おおとかげ》に「失敬」をした。大蜥蜴は明治何年か以来、永久に小蛇《こへび》を啣《くわ》えている。永久に――しかし彼は永久にではない。腕時計の二時半になったが最後、さっさと博物館を出るつもりである。桜はまださいていない。が、両大師前《りょうだいしまえ》にある木などは曇天を透《す》かせた枝々に赤い蕾《つぼみ》を綴《つづ》っている。こういう公園を散歩するのは三重子とどこかへ出かけるよりも数等《すうとう》幸福といわなければならぬ。……
二時二十分! もう十分待ちさえすれば好《い》い。彼は帰りたさをこらえたまま、標本室の中を歩きまわった。熱帯の森林を失った蜥蜴や蛇の標本は妙には
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