かなさを漂《ただよ》わせている。これはあるいは象徴かも知れない。いつか情熱を失った彼の恋愛の象徴かも知れない。彼は三重子に忠実だった。が、三重子は半年《はんとし》の間に少しも見知らぬ不良少女になった。彼の熱情を失ったのは全然三重子の責任である。少くとも幻滅《げんめつ》の結果である。決して倦怠《けんたい》の結果などではない。……
 中村は二時半になるが早いか、爬虫類の標本室を出ようとした。しかし戸口へ来ないうちにくるりと靴《くつ》の踵《かかと》を返した。三重子はあるいはひと足違いにこの都屋へはいって来るかも知れない。それでは三重子に気《き》の毒《どく》である。気の毒?――いや気の毒ではない。彼は三重子に同情するよりも彼自身の義務感に悩まされている。この義務感を安んずるためにはもう十分ばかり待たなければならぬ。なに、三重子は必ず来ない。待っても待たなくてもきょうの午後は愉快に独り暮らせるはずである。……
 爬虫類の標本室は今も不相変《あいかわらず》ひっそりしている。看守さえ未《いま》だにまわって来ない。その中にただ薄《うす》ら寒い防虫剤の臭《にお》いばかり漂っている。中村はだんだん彼自身にある苛立《いらだ》たしさを感じ出した。三重子は畢竟《ひっきょう》不良少女である。が、彼の恋愛は全然|冷《ひ》え切っていないのかも知れない。さもなければ彼はとうの昔に博物館の外を歩いていたのであろう。もっとも情熱は失ったにもせよ、欲望は残っているはずである。欲望?――しかし欲望ではない。彼は今になって見ると、確かに三重子を愛している。三重子は枕を蹴上《けあ》げたりした。けれどもその足は色の白いばかりか、しなやかに指を反《そ》らせている。殊にあの時の笑い声は――彼は小首を傾けた三重子の笑い声を思い出した。
 二時|四十《しじっ》分。
 二時|四十《しじゅう》五分。
 三時。
 三時五分。
 三時十分になった時である。中村は春のオヴァ・コオトの下にしみじみと寒さを感じながら、人気《ひとけ》のない爬虫類の標本室を後《うし》ろに石の階段を下りて行った。いつもちょうど日の暮のように仄暗《ほのぐら》い石の階段を。

       ×          ×          ×

 その日も電燈のともり出した時分、中村はあるカフェの隅に彼の友だちと話していた。彼の友だちは堀川《ほりかわ》という小説家志
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