望の大学生である。彼等は一杯の紅茶を前に自動車の美的価値を論じたり、セザンヌの経済的価値を論じたりした。が、それ等にも疲れた後《のち》、中村は金口《きんぐち》に火をつけながら、ほとんど他人の身の上のようにきょうの出来事を話し出した。
「莫迦《ばか》だね、俺は。」
 話しを終った中村はつまらなそうにこうつけ加えた。
「ふん、莫迦がるのが一番莫迦だね。」
 堀川は無造作《むぞうさ》に冷笑した。それからまたたちまち朗読するようにこんなことをしゃべり出した。
「君はもう帰ってしまう。爬虫類《はちゅうるい》の標本室はがらんとしている。そこへ、――時間はいくらもたたない。やっと三時十五分くらいだね、そこへ顔の青白い女学生が一人《ひとり》はいって来る。勿論《もちろん》看守も誰もいない。女学生は蛇や蜥蜴《とかげ》の中にいつまでもじっと佇《たたず》んでいる。あすこは存外《ぞんがい》暮れ易いだろう。そのうちに光は薄れて来る。閉館の時刻《じこく》もせまって来る。けれども女学生は同じようにいつまでもじっと佇んでいる。――と考えれば小説だがね。もっとも気の利《き》いた小説じゃない。三重子なるものは好《い》いとしても、君を主人公にしていた日には……」
 中村はにやにや笑い出した。
「三重子も生憎《あいにく》肥《ふと》っているのだよ。」
「君よりもか?」
「莫迦を言え。俺は二十三貫五百目さ。三重子は確か十七貫くらいだろう。」
 十年はいつか流れ去った。中村は今ベルリンの三井《みつい》か何かに勤めている。三重子もとうに結婚したらしい。小説家堀川保吉はある婦人雑誌の新年号の口絵に偶然三重子を発見した。三重子はその写真の中に大きいピアノを後ろにしながら、男女三人の子供と一しょにいずれも幸福そうに頬笑《ほほえ》んでいる。容色《ようしょく》はまだ十年前と大した変りも見えないのであろう。目かたも、――保吉はひそかに惧《おそ》れている、目かただけはことによると、二十貫を少し越えたかも知れない。……
[#地から1字上げ](大正十四年一月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
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