神神の微笑
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)ある春の夕《ゆうべ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|紅海《こうかい》の底に
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]
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ある春の夕《ゆうべ》、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣《ほうえ》)の裾《すそ》を引きながら、南蛮寺《なんばんじ》の庭を歩いていた。
庭には松や檜《ひのき》の間《あいだ》に、薔薇《ばら》だの、橄欖《かんらん》だの、月桂《げっけい》だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽《かす》かにする夕明《ゆうあか》りの中に、薄甘い匂《におい》を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本《にほん》とは思われない、不可思議な魅力《みりょく》を添えるようだった。
オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径《こみち》を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬《ロオマ》の大本山《だいほんざん》、リスポアの港、羅面琴《ラベイカ》の音《ね》、巴旦杏《はたんきょう》の味、「御主《おんあるじ》、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛《こうもう》の沙門《しゃもん》の心へ、懐郷《かいきょう》の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須《デウス》(神)の御名《みな》を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
「この国の風景は美しい――。」
オルガンティノは反省した。
「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面《こうめん》の小人《こびと》よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳《そび》えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市《まち》へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那《しな》でも、沙室《シャム》でも、印度《インド》でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
オルガンティノは吐息《といき》をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔《こけ》に落ちた、仄白《ほのじろ》い桜の花を捉《とら》えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立《こだ》ちの間《あいだ》を見つめた。そこには四五本の棕櫚《しゅろ》の中に、枝を垂らした糸桜《いとざくら》が一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主《おんあるじ》守らせ給え!」
オルガンティノは一瞬間、降魔《ごうま》の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜《しだれざくら》が、それほど無気味《ぶきみ》に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故《なぜ》か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那《せつな》の後《のち》、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。
× × ×
三十分の後《のち》、彼は南蛮寺《なんばんじ》の内陣《ないじん》に、泥烏須《デウス》へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井《まるてんじょう》から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸《しがい》を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼《たけ》り立った悪魔さえも、今夜は朧《おぼろ》げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々《みずみず》しい薔薇《ばら》や金雀花《えにしだ》が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後《うしろ》に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無《なむ》大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 私《わたくし》はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇《あ》っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯《ひる》まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能《よ》くする所ではございません。皆天地の御主《おんあるじ》、あなたの御恵《おんめぐみ》でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難《かた》いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜《ひそ》んで居ります。そうしてそれが冥々《めいめい》の中《うち》に、私の使命を妨《さまた》げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 邪宗《じゃしゅう》に惑溺《わくでき》した日本人は波羅葦増《はらいそ》(天界《てんがい》)の荘厳《しょうごん》を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶《はんもん》に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部《しもべ》、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私《わたくし》は使命を果すためには、この国の山川《やまかわ》に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔|紅海《こうかい》の底に、埃及《エジプト》の軍勢《ぐんぜい》を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及《エジプト》の軍勢に劣りますまい。どうか古《いにしえ》の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇《くちびる》から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴《けいめい》が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後《まうしろ》には、白々《しろじろ》と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨《とき》をつくっているではないか?
オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇《そうこう》とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足《ふたあしみあし》踏み出したと思うと、「御主《おんあるじ》」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣《ないじん》の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠《とさか》の海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力《まんりき》か何かに挟《はさ》まれたように、一寸《いっすん》とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣《ないじん》の中には、榾火《ほたび》の明《あか》りに似た赤光《しゃっこう》が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘《あえ》ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧《もうろう》とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
人影は見る間《ま》に鮮《あざや》かになった。それはいずれも見慣れない、素朴《そぼく》な男女の一群《ひとむれ》だった。彼等は皆|頸《くび》のまわりに、緒《お》にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨《とき》をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画《え》を描《か》いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
日本の Bacchanalia は、呆気《あっけ》にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼《しんきろう》のように漂って来た。彼は赤い篝《かがり》の火影《ほかげ》に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交《かわ》しながら、車座《くるまざ》をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶《おけ》を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞《たくま》しい男が一人、根こぎにしたらしい榊《さかき》の枝に、玉だの鏡だのが下《さが》ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根《おばね》や鶏冠《とさか》をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋《いわや》の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓《つる》は、ひらひらと空に翻《ひるがえ》った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰《あられ》のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露《あら》わにした胸! 赤い篝火《かがりび》の光の中に、艶々《つやつや》と浮《うか》び出た二つの乳房《ちぶさ》は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須《デウス》を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪《のろい》の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度|正気《しょうき》に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私《わたし》がここに隠《こも》っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝《まさ》った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須《デウス》を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間《あいだ》、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群《むれ》が、一斉《いっせい》に鬨《とき》をつくったと思うと、向うに夜霧を堰《せ》き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐《おもむ》ろに左右へ開《ひら》き出した。そうしてその裂《さ》け目からは、言句《ごんく》に絶した万道《ばんどう》の霞光《かこう》が、洪水のように漲《みなぎ》り出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈《めまい》
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