が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢《おおぜい》の男女の歓喜する声が、澎湃《ほうはい》と天に昇《のぼ》るのを聞いた。
「大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴《おおひるめむち》! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆《さから》うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴!」
 そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
 その夜《よ》も三更《さんこう》に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音《ひとおと》も聞えない内陣《ないじん》には、円天井《まるてんじょう》のランプの光が、さっきの通り朦朧《もうろう》と壁画《へきが》を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻《うめ》き呻き、そろそろ祭壇の後《うしろ》を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須《デウス》でない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
 オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語《ごと》を洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
 するとその時彼の耳に、こう云う囁《ささや》きを送るものがあった。
「負けですよ!」
 オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透《す》かして見た。が、そこには不相変《あいかわらず》、仄暗《ほのぐら》い薔薇や金雀花《えにしだ》のほかに、人影らしいものも見えなかった。

       ×          ×          ×

 オルガンティノは翌日の夕《ゆうべ》も、南蛮寺《なんばんじ》の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼《へきがん》には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日|一日《いちにち》の内に、日本の侍が三四人、奉教人《ほうきょうにん》の列にはいったからだった。
 庭の橄欖《かんらん》や月桂《げっけい》は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾《みだ》されるのは、寺の鳩《はと》が軒へ帰るらしい、中空《なかぞら》の羽音《はおと》よりほかはなかった。薔薇の匂《におい》、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子《おみなご》の美しきを見て、」妻を求めに降《くだ》って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢《けが》らわしい日本の霊の力も、勝利を占《し》める事はむずかしいと見える。しかし昨夜《ゆうべ》見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人《しょうにん》にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主《てんしゅ》の御寺《みてら》が建てられるであろう。」
 オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径《こみち》を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径《みち》を挟んだ篠懸《すずかけ》の若葉に、うっすりと漂《ただよ》っているだけだった。
「御主《おんあるじ》。守らせ給え!」
 彼はこう呟《つぶや》いてから、徐《おもむ》ろに頭《かしら》をもとへ返した。と、彼の傍《かたわら》には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸《くび》に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐《おもむ》ろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
 不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私《わたし》は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
 老人は微笑《びしょう》を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間《あいだ》、御話しするために出て来たのです。」
 オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印《しるし》に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄《じごく》の炎《ほのお》に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文《じゅもん》なぞを唱えるのはおやめなさい。」
 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教《てんしゅきょう》を弘《ひろ》めに来ていますね、――」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須《デウス》もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須《デウス》は全能の御主《おんあるじ》だから、泥烏須に、――」
 オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀《ていねい》な口調を使い出した。
「泥烏須《デウス》に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須《デウス》ばかりではありません。孔子《こうし》、孟子《もうし》、荘子《そうし》、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉《ご》の国の絹だの秦《しん》の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙《れいみょう》な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字《もじ》を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿《かき》の本《もと》の人麻呂《ひとまろ》と云う詩人があります。その男の作った七夕《たなばた》の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女《けんぎゅうしょくじょ》はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽《あ》くまでも彦星《ひこぼし》と棚機津女《たなばたつめ》とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天《あま》の川《がわ》の瀬音《せおと》でした。支那の黄河《こうが》や揚子江《ようすこう》に似た、銀河《ぎんが》の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟《しゅう》と云う文字がはいった後《のち》も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海《くうかい》、道風《どうふう》、佐理《さり》、行成《こうぜい》――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟《ぼくせき》です。しかし彼等の筆先《ふでさき》からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之《おうぎし》でもなければ※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82] 遂良《ちょすいりょう》でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹《いぶ》きは潮風《しおかぜ》のように、老儒《ろうじゅ》の道さえも和《やわら》げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆|孟子《もうし》の著書は、我々の怒に触《ふ》れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆《くつがえ》ると信じています。科戸《しなと》の神はまだ一度も、そんな悪戯《いたずら》はしていません。が、そう云う信仰の中《うち》にも、この国に住んでいる我々の力は、朧《おぼろ》げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
 オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎《うと》い彼には、折角《せっかく》の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後《のち》に来たのは、印度《インド》の王子|悉達多《したあるた》です。――」
 老人は言葉を続けながら、径《みち》ばたの薔薇《ばら》の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅《か》いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀《ぶっだ》の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡《ほんじすいじゃく》の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴《おおひるめむち》は大日如来《だいにちにょらい》と同じものだと思わせました。これは大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中《うち》には、印度|仏《ぶつ》の面影《おもかげ》よりも、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1−47−53]貴が窺《うかが》われはしないでしょうか? 私《わたし》は親鸞《しんらん》や日蓮《にちれん》と一しょに、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰《ずいきかつごう》した仏《ほとけ》は、円光のある黒人《こくじん》ではありません。優しい威厳《いげん》に充ち満ちた上宮太子《じょうぐうたいし》などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須《デウス》のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前《おまえ》さんはそう云われるが、――」
 オルガンティノは口を挟《はさ》んだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教《おんおしえ》に帰依《きえ》しましたよ。」
「それは何人《なんにん》でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分|悉達多《したあるた》の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
 老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘《ギリシャ》の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
 オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国《さいこく》の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字《よこもじ》の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに
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