にはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋《いわや》の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓《つる》は、ひらひらと空に翻《ひるがえ》った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰《あられ》のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露《あら》わにした胸! 赤い篝火《かがりび》の光の中に、艶々《つやつや》と浮《うか》び出た二つの乳房《ちぶさ》は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須《デウス》を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪《のろい》の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度|正気《しょうき》に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私《わたし》がここに隠《こも》っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝《まさ》った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
その新しい神と云うのは、泥烏須《デウス》を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間《あいだ》、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群《むれ》が、一斉《いっせい》に鬨《とき》をつくったと思うと、向うに夜霧を堰《せ》き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐《おもむ》ろに左右へ開《ひら》き出した。そうしてその裂《さ》け目からは、言句《ごんく》に絶した万道《ばんどう》の霞光《かこう》が、洪水のように漲《みなぎ》り出した。
オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈《めまい》
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