ます。ですから、どんな難儀に遇《あ》っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯《ひる》まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能《よ》くする所ではございません。皆天地の御主《おんあるじ》、あなたの御恵《おんめぐみ》でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難《かた》いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜《ひそ》んで居ります。そうしてそれが冥々《めいめい》の中《うち》に、私の使命を妨《さまた》げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 邪宗《じゃしゅう》に惑溺《わくでき》した日本人は波羅葦増《はらいそ》(天界《てんがい》)の荘厳《しょうごん》を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶《はんもん》に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部《しもべ》、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私《わたくし》は使命を果すためには、この国の山川《やまかわ》に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔|紅海《こうかい》の底に、埃及《エジプト》の軍勢《ぐんぜい》を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及《エジプト》の軍勢に劣りますまい。どうか古《いにしえ》の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇《くちびる》から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴《けいめい》が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後《まうしろ》には、白々《しろじろ》と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨《とき》をつくっているではないか?
オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉
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