がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那《しな》でも、沙室《シャム》でも、印度《インド》でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
 オルガンティノは吐息《といき》をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔《こけ》に落ちた、仄白《ほのじろ》い桜の花を捉《とら》えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立《こだ》ちの間《あいだ》を見つめた。そこには四五本の棕櫚《しゅろ》の中に、枝を垂らした糸桜《いとざくら》が一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主《おんあるじ》守らせ給え!」
 オルガンティノは一瞬間、降魔《ごうま》の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜《しだれざくら》が、それほど無気味《ぶきみ》に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故《なぜ》か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那《せつな》の後《のち》、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

       ×          ×          ×

 三十分の後《のち》、彼は南蛮寺《なんばんじ》の内陣《ないじん》に、泥烏須《デウス》へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井《まるてんじょう》から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸《しがい》を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼《たけ》り立った悪魔さえも、今夜は朧《おぼろ》げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々《みずみず》しい薔薇《ばら》や金雀花《えにしだ》が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後《うしろ》に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無《なむ》大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 私《わたくし》はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居り
前へ 次へ
全12ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング