待っていました。
「それではあの庭の松に御登り。」
女房はこう云いつけました。もとより仙人になる術なぞは、知っているはずがありませんから、何でも権助に出来そうもない、むずかしい事を云いつけて、もしそれが出来ない時には、また向う二十年の間、ただで使おうと思ったのでしょう。しかし権助はその言葉を聞くとすぐに庭の松へ登りました。
「もっと高く。もっとずっと高く御登り。」
女房は縁先《えんさき》に佇《たたず》みながら、松の上の権助を見上げました。権助の着た紋附の羽織は、もうその大きな庭の松でも、一番高い梢《こずえ》にひらめいています。
「今度は右の手を御放《おはな》し。」
権助は左手にしっかりと、松の太枝をおさえながら、そろそろ右の手を放しました。
「それから左の手も放しておしまい。」
「おい。おい。左の手を放そうものなら、あの田舎者《いなかもの》は落ちてしまうぜ。落ちれば下には石があるし、とても命はありゃしない。」
医者もとうとう縁先へ、心配そうな顔を出しました。
「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて御置きなさい。――さあ、左の手を放すのだよ。」
権助はその言葉が終ら
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング