ない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣《わけ》はありません。あっと云う間《ま》に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢《こずえ》から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空《なかぞら》へ、まるで操《あやつ》り人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有《ありがと》うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
権助は叮嚀《ていねい》に御時宜《おじぎ》をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。
医者夫婦はどうしたか、それは誰も知っていません。ただその医者の庭の松は、ずっと後《あと》までも残っていました。何でも淀屋辰五郎《よどやたつごろう》は、この松の雪景色を眺めるために、四抱《よかか》えにも余る大木をわざわざ庭へ引かせたそうです。
[#地から1字上げ](大正十一年三月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷
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