sそび》えてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴《ざくろ》や無花果《いちじゆく》も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気《ひとけ》のない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。「山を下る時イエス彼等(ペテロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ)に命じて人の子の死より甦《よみがへ》るまでは汝等の見し事を人に告ぐべからずと言へり。」――天に近い山の上にクリストの彼に先立つた「大いなる死者たち」と話をしたのは実に彼の日記にだけそつと残したいと思ふことだつた。

     26[#「26」は縦中横] 幼な児の如く

 クリストの教へた逆説の一つは「我まことに汝等に告げん。若《も》し改まりて幼な児の如くならずば天国に入ることを得じ」である。この言葉は少しも感傷主義的ではない。クリストはこの言葉の中に彼自身の誰よりも幼な児に近いことを現してゐる。同時に又聖霊の子供だつた彼自身の立ち場を明らかにしてゐる。ゲエテは彼
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