スのよりも更に意味の深い出来事であらう。彼はその何日か前に彼の弟子たちにイエルサレムへ行き、十字架にかかることを予言してゐた。彼のモオゼやエリヤと会つたのは彼の或精神的危機に佇《たたず》んでゐた証拠である。彼の顔は「日の如く輝き其《その》衣《ころも》は白く光」つたのも必しも二人のクリストたちの彼の前に下つた為ばかりではない。彼は彼の一生の中でも最もこの時は厳粛だつた。彼の伝記作者は彼等の間の問答を記録に残してゐない。しかし彼の投げつけた問は「我等は如何に生くべき乎《か》」である。クリストの一生は短かつたであらう。が、彼はこの時に、――やつと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみを嘗《な》めてゐた。モオゼはナポレオンも言つたやうに戦略に長じた将軍である。エリヤも亦クリストよりも政治的天才に富んでゐたであらう。のみならず今日は昨日ではない。今日ではもう紅海の波も壁のやうに立たなければ、炎の車も天上から来ないのである。クリストは彼等と問答しながら、愈《いよいよ》彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはゐられなかつた。天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳
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