ミなかつた。ヤコブの天使と組み合つたのも恐らくはかう云ふ決闘だつたであらう。悪魔は畢《つひ》にクリストの前に頭を垂れるより外はなかつた。けれども彼のマリアと云ふ女人の子供であることは忘れなかつた。この悪魔との問答はいつか重大な意味を与へられてゐる。が、クリストの一生では必しも大事件と云ふことは出来ない。彼は彼の一生の中に何度も「サタンよ、退け」と言つた。現に彼の伝記作者の一人、――ルカはこの事件を記した後、「悪魔この試み皆|畢《をわ》りて暫く[#「暫く」に傍点]彼を離れたり」とつけ加へてゐる。
13[#「13」は縦中横] 最初の弟子たち
クリストは僅かに十二歳の時に彼の天才を示してゐる。が、洗礼を受けた後も誰も弟子になるものはなかつた。村から村を歩いてゐた彼は定めし寂しさを感じたであらう。けれどもとうとう四人の弟子たちは――しかも四人の漁師たちは彼の左右に従ふことになつた。彼等に対するクリストの愛は彼の一生を貫いてゐる。彼は彼等に囲まれながら、見る見る鋭い舌に富んだ古代のジヤアナリストになつて行つた。
14[#「14」は縦中横] 聖霊の子供
クリストは古代のジヤアナリストになつた。同時に又古代のボヘミアンになつた。彼の天才は飛躍をつづけ、彼の生活は一時代の社会的約束を踏みにじつた。彼を理解しない弟子たちの中に時々ヒステリイを起しながら。――しかしそれは彼自身には大体歓喜に満ち渡つてゐた。クリストは彼の詩の中にどの位情熱を感じてゐたであらう。「山上の教へ」は二十何歳かの彼の感激に満ちた産物である。彼はどう云ふ前人も彼に若《し》かないのを感じてゐた。この海のやうに高まつた彼の天才的ジヤアナリズムは勿論敵を招いたであらう。が、彼等はクリストを恐れない訣《わけ》には行かなかつた。それは実に彼等には――クリストよりも人生を知り、従つて又人生に対する恐怖を抱いてゐる彼等にはこの天才の量見の呑みこめない為に外ならなかつた。
15[#「15」は縦中横] 女人
大勢の女人たちはクリストを愛した。就中《なかんづく》マグダラのマリアなどは、一度彼に会つた為に七つの悪鬼に攻められるのを忘れ、彼女の職業を超越した詩的恋愛さへ感じ出した。クリストの命の終つた後、彼女のまつ先に彼を見たのはかう云ふ恋愛の力である。クリストも亦大勢の女人たちを、――就中マグダラのマリアを愛した。彼等の詩的恋愛は未だに燕子花《かきつばた》のやうに匂やかである。クリストは度たび彼女を見ることに彼の寂しさを慰めたであらう。後代は、――或は後代の男子たちは彼等の詩的恋愛に冷淡だつた。(尤も芸術的主題以外には)しかし後代の女人たちはいつもこのマリアを嫉妬してゐた。
「なぜクリスト様は誰よりも先にお母さんのマリア様に再生をお示しにならなかつたのかしら?」
それは彼女等の洩らして来た、最も偽善的な歎息だつた。
16[#「16」は縦中横] 奇蹟
クリストは時々奇蹟を行つた。が、それは彼自身には一つの比喩を作るよりも容易だつた。彼はその為にも[#「にも」に傍点]奇蹟に対する嫌悪の情を抱いてゐた。その為にも[#「にも」に傍点]――キリストの使命を感じてゐたのは彼の道を教へることだつた。彼の奇蹟を行ふことは後代にルツソオの吼《たけ》り立つた通り、彼の道を教へるのには不便を与へるのに違ひなかつた。しかし彼の「小羊たち」はいつも奇蹟を望んでゐた。クリストも亦三度に一度はこの願に従はずにはゐられなかつた。彼の人間的な、余りに人間的な性格はかう云ふ一面にも露《あら》はれてゐる。が、クリストは奇蹟を行ふ度に必ず責任を回避してゐた。
「お前の信仰はお前を瘉《いや》した。」
しかしそれは同時に又科学的真理にも違ひなかつた。クリストは又或時はやむを得ず奇蹟を行つた為に、――或|長病《ながわづらひ》に苦しんだ女の彼の衣《ころも》にさはつた為に彼の力の脱けるのを感じた。彼の奇蹟を行ふことにいつも多少ためらつたのはかう云ふ実感にも明らかである。クリストは、後代のクリスト教徒は勿論、彼の十二人の弟子たちよりもはるかに鋭い理智主義者だつた。
17[#「17」は縦中横] 背徳者
クリストの母、美しいマリアはクリストには必しも母ではなかつた。彼の最も愛したものは彼の道に従ふものだつた。クリストは又情熱に燃え立つたまま、大勢の人々の集つた前に大胆《だいたん》にもかう云ふ彼の気もちを言ひ放すことさへ憚《はばか》らなかつた。マリアは定めし戸の外に彼の言葉を聞きながら、悄然と立つてゐたことであらう。我々は我々自身の中にマリアの苦しみを感じてゐる。たとひ我々自身の中にクリストの情熱を感じてゐるとしても、――しかしクリスト自身も亦時々はマリアを憐んだであら
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