、。かがやかしい天国の門を見ずにありのままのイエルサレムを眺めた時には。……

     18[#「18」は縦中横] クリスト教

 クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の為に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を発見したのは当り前である。彼の教へた所によれば、「ソロモンの栄華の極みの時にだにその装ひ」は風に吹かれる一本の百合の花に若《し》かなかつた。彼の道は唯《ただ》詩的に、――あすの日を思ひ煩《わづら》はずに生活しろと云ふことに存してゐる。何の為に?――それは勿論ユダヤ人たちの天国へはひる為に違ひなかつた。しかしあらゆる天国も流転《るてん》せずにはゐることは出来ない。石鹸の匂のする薔薇の花に満ちたクリスト教の天国はいつか空中に消えてしまつた。が、我々はその代りに幾つかの天国を造り出してゐる。クリストは我々に天国に対する※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》を呼び起した第一人だつた。更に又彼の逆説は後代に無数の神学者や神秘主義者を生じてゐる。彼等の議論はクリストを茫然とさせずには措《お》かなかつたであらう。しかし彼等の或者はクリストよりも更にクリスト教的である。クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭《らつぱ》の声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々を虐《さいな》んでやまないものを、――近代のやつと表規した世界苦を感じずにはゐられないであらう。

     19[#「19」は縦中横] ジヤアナリスト

 我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出来ない。少くとも我々に迫つて来るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事実を直覚してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善いサマリア人」や「放蕩《ほうたう》息子の帰宅」はかう云ふ彼の詩の傑作である。抽象的な言葉ばかり使つてゐる後代のクリスト教的ジヤアナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジヤアナリズムの効果を考へなかつたのであらう。彼は彼等に比べれば勿論、後代のクリストたちに比べても、決して遜色のあるジヤアナリストではない。彼のジヤアナリズムはその為に西方《さいほう》の古典と肩を並べてゐる。彼は実に古い炎に新しい薪《まき》を加へるジヤアナリストだつた。

     20[#「20」は縦中横] エホバ

 クリストの度たび説いたのは勿論天上の神である。「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである。」――かう云ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであらう。それは我々の腰に垂れた鎖を截《き》りはなす言葉である。が、同時に又我々の腰に新らしい鎖を加へる言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。神は大きい雲の中から細かい神経系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこに位してゐる。クリストは勿論目のあたりに度たびこの神を見たであらう。(神に会はなかつたクリストの悪魔に会つたことは考へられない。)彼の神も亦あらゆる神のやうに社会的色彩の強いものである。しかし兎《と》に角《かく》我我と共に生まれた「主なる神」だつたのに違ひない。クリストはこの神の為に――詩的正義の為に戦ひつづけた。あらゆる彼の逆説はそこに源《みなもと》を発してゐる。後代の神学はそれ等の逆説を最も詩の外に解釈しようとした。それから、――誰も読んだことのない、退屈な無数の本を残した。ヴオルテエルは今日では滑稽なほど「神学」の神を殺す為に彼の剣を揮《ふる》つてゐる。しかし「主なる神」は死ななかつた。同時に又クリストも死ななかつた。神はコンクリイトの壁に苔の生える限り、いつも我々の上に臨んでゐるであらう。ダンテはフランチエスカを地獄に堕《おと》した。が、いつかこの女人を炎の中から救つてゐた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持つたものはいつも「限りなき命」に入つてゐる。感傷主義の神と呼ばれ易いのも恐らくはかう云ふ事実の為であらう。

     21[#「21」は縦中横] 故郷

「予言者は故郷に入れられず。」――それは或はクリストには第一の十字架だつたかも知れない。彼は畢《つひ》には全ユダヤを故郷としなければならなかつた。汽車や自動車や汽船や飛行機は今日ではあらゆるクリストに世界中を故郷にしてゐる。勿論又あらゆるクリストは故郷に入れられなかつたのに違ひない。現にポオを入
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